美はそれを見つめるものの目の中にある
カントの「美はそれを見つめるものの目の中にある」(Beauty is in the eyes of the beholder.)という言葉が印象深いのです。荘子もおなじ意味の言葉を「美者自美」と残しています。アウラ(オーラ)は対象のなかにあるのではなくて、それを見る観察者の中にあるのだ、というのです。
いろいろな「出てくる体験」を体験して、ものごとの関係性について考えていると、そこにある関係性について、最初から規定のものではなくて、関係性を発見する能動的な作業をする自分のなかで生まれてくるのだなと感じることがあります。
コンピュータを使うと、紙やものを使って考えていた場合とくらべて、桁がすくなくともひとつかふたつの上の数のものを扱うことができるようになります。本だと1万冊の量はたいそうな分量ですが、画像なら100万枚でもハードディスク1台ではいるのです。多くのものを扱うのだから、類似性や関係性を見つけるのは容易(たやす)くなるはずです。母集団が多いほど、おなじ指向のグループを見つけるのが容易いのと同じです。
ただし、紙やものは実体感をもっていて、その実体感を扱うことになれているのに対して、コンピュータのもつ仮想的な感覚を信頼して紙と同様に扱うことは、なかなかできないかもしれません。「 出てくる体験」をくり返さないと、コンピュータを使う気にはならないでしょう。
その点で、ファミリーコンピュータをはじめとしたコンピュータのゲーム機やPCを生まれたときから身の回りの存在として体験してきたデジタルネイティブな世代が増え続けているのは、なんとも頼もしいというか、興味深いものだと思います。インタラクションデザインも進歩して、Wiiに代表されるような身体性に回帰するインターフェースは、従来のボタンよりもずっと実体感に近づいていると考えられます。
筆者の場合、1日1回以上の「出てくる体験」をくり返すことによってコンピュータを信頼して、コンピュータにライフログのデータを蓄積することを恐れなくなりました。それまでは、見えない場所に情報を蓄積して、バッテリーや電源につないだ再生機を通さないと見ることもできないことに対する不安感がありました。デジタルへの不安感とは、それを払拭した現在から見ると、無知ゆえの不安感だったと考えています。「 出てくる体験」はいわば成功体験なので、成功体験をくり返すと、コンピュータを信頼するようになるわけです。
本題に戻って「出てくる体験」の頻度は、紙やものでは体験できなかったものであり、コンピュータの圧倒的なパワーを感じるようになったわけです。そのときに、筆者はいわばデジタルネイティブとして、生まれ変わったのだといってもよいでしょう。
書棚に本を並べる
関係性を見いだすのは対象を見る観察者の力量によるのだとしたときに、情報の並べ方の勉強として遊んでいるのが本棚です。
デスクのすぐわきにある書棚に並べた未読の本は、こんな順番になっています。『 レヴィ=ストロースの庭』で庭から始まった旅が、東京から旅立って遠い町に行き、パリを経て世界の島に向かい、島から反転して猫の国に着いた後で、ねこに誘われて図書館にたどりつくストーリーを想定して並べました。
庭から図書館へ
旅を想定してならべた未読の本棚です。やばい。1冊も読んでない。その理由のひとつを言い訳すると、この記事を書き終える前に並び順を変えたくなかったってこともあります。
並んでいる書籍はノンフィクションあり、評論あり、小説ありと雑多で、ジャンル分けや作家順に並べた場合には、このようにはぜったいに並ばないと考えられます。ジャンル分けして整理した書棚のもつ硬直感とは無縁です。
書棚の本の並べ方とは、すなわち関係性なのであって、そこにこういう関係性やストーリーを見つける作業には、ずぶずぶと深みにはまってしまう楽しさがあります。
中身そっちのけで並べることに楽しみを見いだしたりすることがあります。こうして記事を書いたので、この本の並びはなくしてしまって、読むことにしようと思いますけど。この件をネタにしようと思ってからこれまで、約1年くらい、あ~でもないこ~でもないと並べては関係性を見いだして楽しんでいたのです。
2009年1月26日の書棚
この記事を書くために、並び順の写真を撮っておこうと思ったのが2009年1月26日のことでした。半年前です。この記事じたいは、ほぼそのときに(頭のなかでは)書き終えていたことになります。それにしても、それから半年、この並びに1冊の変動もないことじたいにびっくり。あ、よく見ると変動ありますね。増えてます。未読...。
この記事を書くきっかけとなったEsquire2009年2月号
特集は「見せたい本棚の作り方。」でした。
各社の文庫の100冊シリーズは夏の恒例のイベントで、「 新潮文庫の100冊ビューワー」のページでも、本を分類して紹介しています。
新潮文庫の100冊ビューワーのページ
この夏おすすめの新潮文庫の100冊を見ることができます。ユーザー登録するとチェックもできるみたい。
基本的な分類は時間と場所で、あまりにもベーシックすぎます。かろうじてジャンル別に関係性の楽しさを感じられるかと思ったのですが、普通すぎます。「 関係性を発見」する楽しみを満喫するのは、「 発表時の著者年齢順」です。『 キッチン』『 檸檬』『 羅生門』 。こりゃいい。なにかの暗号に使えそうです。『 シャーロック・ホームズの冒険』『 重力ピエロ』『 山月記』とか。
文庫を読んでいたのはやはり学生時代ですね。中学生のときと高校生まででしょうか。中学時代に毎日1冊ずつ文庫を読むのは幸せだったなぁ。
1981年の夏の目録
角川文庫の100冊の目録に、大量にチェックやら書き込みやらをして読んでました。
関係性の法則を見いだしたデジタル化
先の写真の本棚ですが、その上の段も並べ方にこだわっています。ここにも未読の本が並んでいます。
記事を書くことを意識し始めたときの書棚
まだ並べ方に試行錯誤していて、色順(緑系) 、テーマ順(サイエンス系)など、いろいろあります。
パシフィカの名探偵読本1『シャーロック・ホームズ』は、1978年11月の刊行で、かれこれ31年前の本です。筆者はシャーロッキアンですが、その人生を決定づけた本かもしれません。
そこから右に並ぶ並びは、ある法則をもっています。並び方の法則、わかりますでしょうか?
「解答は次回」なんて悠長な話は嫌いなので種明かしをすると、末尾が「ズ/ス/Z/X/S/CE/SE」の並びがあり、背景と題字の色が反転しているのがつづき、やたらと文章の長いタイトルがあり、その先は23冊つづけて末尾が「い」で終わる本を並べてあります。
撮影に入る直前の書棚
まだ完全にエスカレートしていないのですが、すでに「ス」と「い」が増殖しています。
末尾が「ス」
末尾が「ス」で終わる本とDVD。撮影用に既読未読あわせて並べてみました。こういうのはエスカレートします。
いやはや、こんなに末尾が「い」で終わる本があるなんてちょっと驚きですけども、並べてみたらこうなりました。ほんとうは、この下の段にあった本を2冊重複して並べているので、すこし写真撮影のためにずるしてます。
いやいっそ撮影のためと、未読既読取り混ぜて、一段全部いっせいに「い」で終わる本で並べてみました。
撮影中に気分が盛り上がってエスカレート
1段ぜんぶ「い」で終わってみました。怒濤の41連発です。
ほっと撮影を終えて一息ついたら...
補遺がでできました。「 ス」と「い」です。次は「カ」ですかね。
いやいやとはいえ、末尾が「い」で終わる本並びとかってのを探して楽しんでいるのは、なかなか本の読み方(?)としても奥深いのではないでしょうか。この楽しみは、なかなか尽きないです。しかも撮影が終わったら、きっちり「ス」と「い」の補遺が出てくる始末。ざっくり本棚を見ていたら、ほかには「ん」で終わる本は多そうです。「 冒険」「 永遠」「 楽園」「 図書館」「 入門」「 NR(ノー・リターン)」「 表現」「 陪審員」「 帰還」「 次元」「 精神」「 タッチダウン」「 金枝篇」などなど。
関係性を見つけるのは、ほんとうに楽しいのです。
未読本を並べて楽しむ理由は、読了後は速やかに断裁してスキャンしてしまうためです。リアルなものとして整理しておけるのはわずかな期間だけなのです。書棚の本はつねに過渡的な存在で、最終的な整理はコンピュータのなかで行うことになります。
デジタル化以前は、書棚を二重にしたり段ボールに詰めたりして本を殺していたのです。「 出てくる体験」で関係性を見いだし、活用できるようになってから、本を読む読み方じたいが変わってきたのだと思います。
本棚に並んでいる本の数がデジタル化によって相対的に少なくなり、ぜんぶを一望しやすくなり、並べ換えしやすくなり、結果としてなにか関係精を見いだす遊びというかゆとりができてきたのです。