禅で学ぶ「エンジニア」人生の歩き方

第2回ゆとりの中に見える自分

今回は、心にゆとりを持って、少し余裕のある職場生活を目指すための禅語を3つほど選んでみました。

メモリしかり、CPUしかり、HDDしかり。少し余裕がないと色々困りますよね? 人の心身もまた、同じなのではないかと思います。

禅語「日日是好日」「雨奇晴好」

ランク:初級 カテゴリ:職場にて

お仕事の始めたて、あるいは1~2年生の頃は特にだと思うのですが、どう設計すれば、コーディングすれば、考えればいいか、わからなくて頭を悩ませ、作れば作ったでバグで苦しみ、スケジュールに追われて、何かと苦労が絶えず、しんどい思いをすることも多いと思うんですね。

でも……そこで本当に「苦しい」とだけ思ってしまうと、いつか心身をやられてしまいます。とはいえ……ならば、どうしたらよいのでしょう?

日日是好日、という禅語があります。

当然ですが、楽な日もあれば大変な日もあります。楽しい日もあれば辛い日いもある。嬉しい日もあれば悲しい日もある。でも、その全てにはきっと、意味があるのです。

空腹のつらさを知らなければ、満腹の満足感はわかりません。辛さを知ればこそ、嬉しさが身にしみるのです。その意味を考えることができるなら、すべては「好日」になるのではないでしょうか?

雨奇晴好という禅語もあります。

雨はとかく嫌われがちですが、その雨が草木を育て、素晴らしい景色を育てる訳です。

すこし気分を変えて雨の日に街に出れば、きっとステキな雨のオーケストラを聴くこともできます。雨の日特有の、すこしけぶった景色もまた、風情があるものです。普段は見られない、建物の濡れ色も美しいですよね。

お仕事は無論大変ですが、その「大変」の中から、楽しみを、学ぶべきものを、反省すべき改善すべき点を見つける視点を持つことができたら。

きっとあなたの日々は、好日になるのではないでしょうか?

禅語「翠竹のなかより、発心得道するあり」

ランク:中級 カテゴリ:職場にて

我々技術の業界は、頭を使い考えてその結果を売りものにする商売です。ですので「考える」⁠思考する」⁠思案する」⁠考察する」という類は必須であり、避けられ得ぬものではあります。

が……考えて考えて考え抜いた挙げ句、自らの思考にとらわれすぎて、まるで霞網でもがく鳥のようになる瞬間はないでしょうか?

そうして。そんなときに……あなたなら、どうしていますか?

今回の禅語「翠竹のなかより、発心得道するあり」の由来を、紐解いてみましょう。

香厳和尚なる、学識高く聡明で修行熱心という、素晴らしい禅僧が中国唐代におられたそうです。

その学僧がどれだけか考えても悟れず悩んだ時に、師に「頭で考えすぎるからだ」……とは言われたものの理解できず(多分その言葉の意味を「考えて」しまったのでしょう⁠⁠。あきらめて旅に出てしまったそうです。

そうして旅をしているうちに……小石を拾って竹林(翠竹)に石を投げ入れた。そのときにした「小石が竹にあたって出る音」で……悟りに気付いた。

というお話しです。つまり「翠竹のなかから聞こえてくる音を聞いて、私は悟りに気付くことができた」と。

人間面白いもので、いったん思考で詰まったりループしたりすると、どこまでもこんがらがってしまうんですね。

で、それをほどくために「考えて」しまい、もっと混乱してしまう。それをほどくために「考えて」しまい……以下、条件式がfalseになるまで無限にループします。

ひらめく、ブレイクスルー、気付く、悟る。どの言葉をチョイスしてもいいのですが、 そういった状態は、脳みそにとってある種異常な状態だそうです。そういう「異常」な状態は、脳みそを「暇」にしていないと、構築できないんだそうです。

私はよく「思考をバックグラウンドで処理する」と言いますが……これをやっている人は案外に多いようです。つまり「しっかりと考えたあと、一度頭をカラッポにして、考えるのを止めてみる」のです。

そうすると。なんでもない、ささやかな刺激(翠竹に投げ入れた小石の放つ音)が、いきなりのブレイクスルーを与えてくれることがまま、あるのではないでしょうか?

ちなみに。

香厳和尚は旅をして歩いていました。逍遥学派なる方々は、歩きながら考えごとをするそうです。モチベーションに関係する淡蒼球という脳部位を動かすひとつの方法に「運動」というものがあるそうです。

思考を止める時には同時に、少し、体を動かしてみるのもよいのではないでしょうか?

椅子に座りっぱなしだと……色々と、危険な部位も増えますし。

禅語「人物心身の無常なるこれ仏性なり」

ランク:上級 カテゴリ:職場にて

年数を経て経験を得るということは……素晴らしいことであると同時に、己を他人を周囲を縛る鎖となることが、ままあります。

そんな状況を少し紐解いてみましょう。

  • 「今ちゃんと動いているシステムなんだから下手に触るな」
  • 「今まで良好な関係を築けていた部下なんだから問題はない」
  • 「今までもこれからもずっと取引を続けていられる」
  • 「今までこういう勤務態度で問題なかったのだからこれからも問題ない」

などという思いを感じ、言葉を発したことはないでしょうか? そうして、上述の言葉は、本当にtrueなのでしょうか?

「今まで動いていたシステム」「今までのビジネスと人の動き、世の動き」には、確かに沿っていたものでしょう。しかし、人は世代交代をして世は移り変わり、ビジネスは常に流れゆくものです。⁠これから」のビジネスに、果たしてそれは耐えられ得るものでしょうか?

今までの「部下との良好な関係」は、おそらく「1mmずつ築き上げてきたであろう信頼」です。しかし、そういう努力を怠った瞬間に、信頼は容易に崩れ去るものです。取引先も、社内での評判も然り。⁠今までの努力」に、胡座をかいてはいませんか?

無常、という言葉が禅にはあります。つねならずというその言葉は、洋の東西を問わず言われていることです。プラトンの(引用した、実際にはヘラクレイトスの言葉なのですが)⁠万物は流転する」が、意味合いとしては同じモノになります。

つまりまさに「つねならず⁠⁠。あらゆるものは常に移り変わり、ただひとときたりとて留まることはないのです。

その「変化」を前提にしているうちはいいのですが、いつしか経験を年を経るうちに、自らの知識に立場に権力に考えに固執してしまい、変化を拒絶する心持ちに、いつしかなっていないでしょうか?

忘れてはいけません。あらゆるものは「つねならず」なのです。

どうしても、手にたくさんのものを持ち、頭にたくさんの知識と経験があればこそ陥ってしまう「今に固執する」という落とし穴を。

今一度、確認してみませんか?

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