今回は「自らを見直し、ただす」ための禅語を3つ選びました。
ただ、「自らを見直し、ただす」という言葉には微妙に諸刃な側面があるので、先に注意といいますか、私なりの見地を書きたいと思います。
時々「自らを見直す」という言葉で自分を責めてしまう方がいらっしゃるのですが、それは違うのではないか、と私は考えています。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は少々使い古された感もあろうかと思いますが、ミスを、失敗を認識することと、人を否定することは根本的に異なるものであると思います。
お釈迦様だってお経を読み間違え、弘法様だって筆を誤るのです。猿だって木から落ちるわけですし、河童だって溺れるものなんです……って並べると豚が欲しいところですねぇ(笑
おいといて。
つまり。誰だって失敗もミスも過ちもあるのです。
過ちは、過つから悪いのではなくて「過ちて改めざる、之を過ちと謂う」のです。
なら、改めちゃえば過ちではなくなりますよね? それを人は「経験」とか「学習」とかいう風に呼称します。
ならばこそ。少しだけ勇気を持って自らを自らの行いを見直し、必要に応じてただすのは、とても有益なことなのではないでしょうか?
だからこそ。思い悩むほど思い詰めず、もっと肩の力を抜いて。前回やった「ゆとり」を思い出しながら、気楽に内省してみるのも「また楽しからずや」なのではないか、と思います。
ですので。まるで苦行であったり拷問道具であったりするのではなく、人生をより楽しむための一提案としての内省、というイメージを持っていただければ、と思います。
もう一つ。
正直に書きますと……3つの禅語のおおよその意味合いの根幹部分は、非常に似通った部分があります。つまり、3つの禅語を前回同様、新人、中級、上級に振り分けましたが……この順番でなくてもほぼ同じことが書けます。
ただ、ですからこそなおさら。
この3つの禅語から見える「自らを省みる」という事柄を今ひとたび。
気軽に、ゆる~く、考えていただければ幸いです。
禅語「回光返照」
ランク:新人 カテゴリ:スキルアップ
元々は、夕日の照り返しを意味する言葉です。太陽が西に沈みゆく、黄昏時にさしかかる少し前の照り返しの輝き。きれいですよね。
そんな美しい光景を、禅語ではどのように捉えているのでしょうか?
例えば。
何かトラブルがあった時……そうですねぇプログラムがバグったとしましょう。もう少しおっかないところで「システムが落ちた」という状況も……決して「稀」とは言い難い現場もあろうかと思います。
そんなとき。つい「開発環境のバグ」とか「言語のバグ」とか、或いは「一緒に作ったほかの人のバグ」を、まず念頭に置いていないでしょうか?
例えば。
先輩に設計を頼まれた、調査を頼まれた、自分の作業で不明点があった。
そんな時に。「答えを知っている人に聞いたほうが早い」と、つい考えてしまうことはないでしょうか?
例えば。
何か人生に行き詰まっている時に、悩んでいる時に。
誰かの講演にいって心を落ち着かせ、生き方を書いたベストセラーを読んで安心し、古人の「言葉」を必死に探して鵜呑みにしていることはないでしょうか?
世の中が悪い。制度が悪い。仕組みが悪い時代が悪い。先生が悪い。社会が悪い。
挙げ句には教えてくれない見てくれないかまってくれない愛してくれない大切にしてくれない甘やかしてくれない金をくれない仕事をくれないおまえ等が悪い。
挙げ句、最後に出てくるのは「自分以外のすべてが悪い」。
「君の人生のレールは僕が引いて上げよう。そうすれば、君はどんな失敗も僕に責任転嫁することができる。“自分は悪くないんだ”って自分に言い訳をすることができる」とは、とある占い師の大変に皮肉な言ですが、人は、何か良くないことが有った時に、原因もそれを救う道も、すべてをつい、外側に求めてしまう傾向があります。
でも。それは本当に、正しいのでしょうか? 真っ当な考え方なのでしょうか?
そんな、つい他人にすべてを預けてしまいそうになる時に。
「自分自身とちゃんと向かい合っていきましょう」というのが、禅語「回向返照」の言葉の意味です。
夕日が、空が。自らの出した光の照り返しで燦々と輝くように。あなたの中にある輝ける「自己」を信じて。自らの行いの過ちを素直に反省し、自らの心に素直に問いかけて、自らの頭で考えて、自らの心で感じて。
- そんな「自分」を、あなたは忘れていないでしょうか?
- 自己を、自らの頭を心を感情を、見失ってはいないでしょうか?
- 見えている見失っていないつもりで外に全てを投げかけて……「自己を見失っている」自分すらも見失っていないでしょうか?
もう一度、「自分」という存在を。その中にいる確固たる「自己」を。頭を心を体を感情をそのすべてを。静かに、落ち着いて、少しだけ時間をかけて。感じ取ってみては如何でしょうか?
特にこのIT業界において、人様に教えを乞うことはとても大切ですし、そこから得られる学びはそれはそれは得難いものではあります。
しかし。「まなぶとはまねぶなり」とはいうものの、いつまでも模倣のままでは、鵜呑み丸暗記のままでは、ただの劣化コピーに過ぎません。
そこから先、自ら考察してかみ砕いて応用を利かせられるようになって、初めて「習得した」と言えるのではないでしょうか?
他人に求めることを否定はしません。でも、それと同じくらい程度にそれ以上に。自らにも同じものを求めてみませんか?
禅語「照顧脚下」
ランク:中級 カテゴリ:スキルアップ
直接的には「足下を照らして顧みよ」という意味です。では……「足下」とは、なんでしょうか。
プロとして専門家として職業人として。日頃から皆さんもスキルアップは少なからず念頭にあろうかと思うのですが、では、どうやってスキルアップを図りましょうか? という話になろうかと思います。
高名な方の高価なセミナーがよろしいでしょうか。それよりももっと権威のある、大学や政府などが主催するものがよろしいでしょうか。或いはハイレベルな合宿もよろしいかもしれません。
……本当に?
もちろん、そういったトレーニングを否定はしませんが。
日々のお仕事の中に。日頃の何気ないコーディング、設計、運用管理、果ては雑談の中に。そんなところには、学びの種はまったくないのでしょうか?
スキルアップのためにも、理想をもつことはとても大切ですし重要です。でも、その理想のために「現実」が「今」がおろそかになってしまうことは、果たして是なのでしょうか?
お仕事はもちろん大切です。でも仕事のために、家庭を家族を伴侶を友人をないがしろにして、果たしてほんとうによいものなのでしょうか?
照顧脚下。
足下を、まず、見てみましょう。
日常の何気ない所作。いつもの変わりない日々。今目の前にある、やるべき作業。淡々とこなすべき日常。
そういうものを大切に丁寧にこなした「上に」あってこそ、のスキルアップなのではないかと思うのですが、如何でしょうか?
高価なトレーニングも、実作業に生かせなければ意味がありません。仕事のために家庭を壊して……あなたはどこに帰るのですか?
ほかにも。
言い争いで「とにかく他人を否定する」ことに躍起になってしまう瞬間がありますが、そんな時こそ、深呼吸をして「今一度、まず自らの論を再考察する」ことは大切でしょうし、
平和だ福祉だボランティアだと言葉を重ねた人の生活が居丈高で傲慢に満ちたものであれば、どんなに素晴らしい言葉であっても、まるで絵空事のように聞こえてしまうものなのではないでしょうか。
ふとした瞬間に。例えば、今。まずは「足下を見て」みましょう。
この言葉がよく使われる通りの意味「履き物を揃える」所から実践してみるのも、よいかもしれませんね。
禅語「よき人に近づけば、不覚よき人となるなり」
ランク:上級 カテゴリ:スキルアップ
人を指導し、頭をはり、会社を経営し、部下を持つあたりになると、色々と苦労が絶えないものではあります。
- 手を組める仲間を集おうにも、あまりにもレベルが低く。
- 部下はやる気もなければ出来も悪く。
- 派遣は口先ばかりで成果など全然ダメダメで。
- 中間管理職はおべっか使いで口先だけの役立たずで。
- 取引先は無茶をいうばかりで金払いも悪い。
これでは心労も絶えません……という話に頷いた方に質問を差し上げてみましょう。
その状況を作った原因の1%たりとも自分が関与していないと、言い切れますか?
「霧の中を行けば 不覚衣しめる」
禅の中に、こんな言葉があります。
どれだけか傘を差し蓑を着ようとも。深い霧の中を歩けば、どうしてもしっとりと衣服はしめってくるものです(「100%防水かつ撥水」なんていう浪漫チックでない単語は、少々念頭から外しておきましょう)。
森の中草原の中庭園の中。けぶった空気と微かな雨音と濡れた新緑と……そんな風景は非常に風情があって好みなのですが……私の好みは置いておくとしまして、霧の中を歩いていけば。誰の衣服だって、それなりにしめるのです。ごくごく当たり前ですが。
そうして、禅語は、こう続けます。「よき人に近づけば 不覚 よき人となるなり」、と。
ただふれあうだけで。ひとときの出会いで言葉で会話で。つまり「近づ」くだけで、まるで霧が衣をしめらせるように、人は人を「よき人」にできる、と、禅語ではそういわれています。
押しつけるのではなく押さえつけるのではなく、自然に。つまり「不覚」。
今一度、振り返ってみましょう。
仲間が部下が派遣さんが中間管理職の方々が取引先が、もし何か問題を起こしたとして。自分自身に原因があったとまでは言いませんが、でも、少なくともあなたは「彼らの衣服を湿らせることができる」ほどの霧を持つことが出来なかったのは、「よき人とならせる」ことが出来なかったのは、確かな事実だと思うのですが如何でしょうか。
もちろん「よい人物を探す」ことはとても大切です。
でもそれ以上に「よい人物を作る」ことができるなら。きっとあなたの周りは、素晴らしい環境になるのではないでしょうか?
せっかくの、これまでのキャリアです経験です。
衣の湿った人物をあてもなく探すよりも。みずからが霧になってみませんか?