禅で学ぶ「エンジニア」人生の歩き方

第5回四つの戒め

今回は「法演の四戒」と呼ばれるものを取り上げてみます。 トータルすると「控えめにする」という視点が、その基準になろうかと思います。

どれも、結構技術者が陥りやすいものだと思いますので、俯瞰視点で自分の行動を顧みる参考にしていただければ幸いです。

禅語「勢不可使尽」

ランク:新人 カテゴリ:職場にて

日本語で「勢い使い尽くすべからず」と書かれ、その後に「使尽禍必至(勢い使い尽くさば禍必ず至る⁠⁠」と続きます。なにか「良い感じの勢いに水を差しまくる」ようなお話しなのですが……これにはどんな意味が込められているのでしょうか?

色々と困難トラブルにとらわれている時と比較して、良い感じの波に乗れる瞬間、ってのがあります。

設計しかりコーディングしかり作業しかり、そういう「きたキタ来た~~~!!」という瞬間を感じたことが一度ならずあるかと思うのですが如何でしょうか? そういう調子の良い時は色々と勢いよく進められそうなのですが……そこに、落とし穴があります。

禍(わざわい⁠⁠。トラブルとかミスとか失敗とか事故とかに置き換えてもよいのですが、1つの顕現した禍の影には、29の禍の種があり、そのさらに背後には300の禍の匂いが隠れています。これをハインリッヒの法則なんて言い方もするのはちょっとした余談。

つまり。禍は、顕現する前に種とか匂いとかに気付けば、それを叩き潰していくことができるんですね。

人間面白いモノで、調子が悪い時は相応に周囲に気を払うので、案外にそういった種や匂いに気付くのですが、勢いがある時はそういった些細なことに気付かなかったり、気付いても「まぁ大丈夫だろう」と、結果的に気付かないのと大差ないことをしてしまうことがあります。

これに気付くように、という意味で「ヒヤリハット」なんて言葉もありますね。

これが、自分「だけ」に害をなす禍であれば、まだよいのですが。

例えば他人の、安全とか健康とか挙げ句には生命とか。或いは相手の心とか関係性とか。そういったものにまで禍が及ぶとしたら……それでもまだ「勢いを使い尽くして走り続けたい」と思いますか?

ある意味、調子がよい時というのは「荒れ野の誘惑」と同じ状態です。勝って兜の緒を締めよ、です。

調子がよいからこそ、勢いがあるからこそ、自らを、自らの行いを振り返り、より多くの配慮を周囲にする必要があるのではないでしょうか?

  • ちょっといい設計ができた。
  • 思ったより早くコードが組めた。品質もよかった。
  • トラブルなくインストールができた。
  • よい提案ができた。

その素敵な思いを大切にしつつ、その手柄に慢心せずに、一呼吸置いて「本当にできているか」をもう一度振り返ってみる。

その余裕の積み重ねが、本当の信頼をあなたの手元に導いてくれると思いますよ。

禅語「福不可受尽」

ランク:上級 カテゴリ:ビジネス

「福不可受尽(福受け尽くすべからず⁠⁠ 受尽縁必孤(福受け尽くせば縁必ず孤なり⁠⁠」と続きます。

単純に見て「お金が儲かる」という福から始まり、例えば人脈、ビジネス。さらには健康、外見容姿、その他。⁠福」と名の付くものは多々あります。そうそう「経験」⁠知識」⁠スキル」も、同様に「福」と見なせるかと思います。

そういった様々な「福」は、独占する理由のある「ご自身だけの単独の力で勝ち得たもの」なのでしょうか?

「おかげさまで」と謙遜する言葉がありますが、この語源は「お陰様」と言います。この陰とは、あなたの見えないところであなたを助けてくれるサムシングです。

福を受ける受けない以前に、あなたがここに存在していること自体が、連綿と続くご先祖様達がいらしてくれた「お陰様」ですし、息ができるのも空気がある「お陰様」であり、五体満足に生まれ、呼吸器がちゃんと動いてくれている「お陰様」です。

ビジネス一つをとっても、そのビジネスのルートを作ってくれた先人、取引先、お客様、同僚、部下、その他諸々。決して自分1人でどうにかなるものではないと思うのですが如何でしょうか。

そうしてまた。
福をあまりにも受け尽くしてしまうと……人は、歪みはじめてしまいます。

利益のために手段を選ばなくなり、利益を独占し始め……その後に待っているのは、まさに孤立です。 部下からも同僚からも取引先からも顧客からも友人からも見放されてしまうとしたら……そこまでしてなお、福を1人で受け尽くしたいですか?

お裾分けを、御福分けともいいます。 せっかくの、お陰様で頂いた福です。喜びと一緒に、みんなで共有してみませんか?

禅語「規矩不可行尽」

ランク:中級 カテゴリ:職場にて

今回のパターンに従って、まずは文を書いてみます。

「規矩不可行尽(規矩行い尽くすべからず⁠⁠ 行尽人必之繁(規矩行い尽くせば人必ずこれを繁とす⁠⁠」

規矩とは少々見慣れない言葉ですが、大本はぶんまわし(コンパス)と定規(物差し)のことです。大工さんの世界では、今でも「規矩術」という言葉が残ってますね。

で……そこから発展して、規矩には「手本、規則」なんていう意味があります。

つまり、少しかみ砕きますと「手本/規則通りの行いを尽くしてはいけない」となります……が……はて?

ルールを守りコーディング規約に則って規則通りにすることの、いったい何がよくないというのでしょうか?

規則やルールは、概ね「遵守しなければならないもの」と教わるものなのですが……ここに実は、いくつかの落とし穴があります。

ルールや規則を「絶対的に正しいから守りなさい」という人たちが時々いるのですが。もし例えば、規則やルールの最たるものである法律が「絶対的に正しい」のであれば、なぜ「法改正」などというものがあるのでしょうか?

その一点を考えても、規則やルールの類が「間違いなく正しい」とは、言い切れないことがわかります。

よく「法の網の目を潜り抜ける」などという言葉があるとおり、規則をただ杓子定規に守ろうとすると、その規則で書ききれなかった抜け道を通る悪意ある人が出てきたり、また逆に「本当ならその法で守るべき対象」を守りきれなかったり、などという矛盾が起きることも、残念ながら皆無ではありません。

さらに別の角度から見ると。
⁠規則通りにやればよい」とだけ教わってしまいそれに慣れてしまうと、現実の荒波にあっさりと負けてしまう、なんていう保護された業種/立場の人も、稀にとはいえいらっしゃると思うのですが如何でしょうか。

また……これは「作り話」の中だけのことだ、と信じたいのですが。
⁠規則とは、上が下を締め上げて、上が自分の立場地位財産その他を守るためにあるのだ」というようなシチュエーションの小説を読んだこともあります。
とはいえ。いわゆる「血縁で固められた企業」で、これに近いことが行われている、という話を耳にしたことがないわけでもありません……残念なことに。

このように、規則とは決して「絶対的」なものでも「平等」なものでもありません。むしろ「非常に不完全で不平等なもの」なんですね。 だとすると「規則だから、という理由で盲目的に従う」には抵抗感があることもわかりますし、つまり「盲目的に従え」と相手に強制するには少々難しいであろうことも想像ができます。

しかし一方で「規則がない状態」がどれほど無法地帯であるかは、これは言うまでもないと思います。 であるとすれば……どこに落としどころを持って行くとよいのでしょうか?

さて、ここで質問です。大切なのは「一言半句違えず、規則という文章を遵守する」ことですか? ⁠その規則を作るに至った理由を基準に、自らで思考する」ことですか?

規則には大抵「なぜその規則を作るに至ったか」という、理由があります。例えば法律ですと逐条解説というものが存在します。

この手の議論で、技術者にとってわかりやすいお話しに「GoTo文に関する議論」があります。

元々GoTo文が「好ましくない」と言われていたのは「プログラミングの構造化を妨げ、可読性やメンテナンス/保守性を著しく低下させる」から、だったと思うのですが、この「構造化、可読性の低下」の部分が忘れ去られ、ただGoTo文があるだけで「すべからく駄目である」とされてしまう文章を拝見したことがあります。

このあたりが「その規則が出来た理由」が忘れ去られてしまい「規則だけが形骸化した」一例です。

ほかにも……ご自身で経験が無くとも。先輩達に話を聞けば「無用の長物というよりもむしろ有害な規則/規約にまつわる話」は、きっとなにがしか聞けるのではないでしょうか?

これが「規矩行い尽くせば人必ずこれを繁とす」です。 つまり「盲目的に規則/ルールを強要されると、人はそれをわずらわしく感じる」ということです。

規則やルールには必ず「理由」がありますし、またそれは「その当時の理由」であって、今にそぐうかどうかも解りません。
また、仮にそれが「全面的に正しい」としてもなお、⁠正しいから従え」という言い方では無用の反発を産んでしまいます。

「味噌の味噌くさきは、上味噌にあらず」なんて言葉もありますし、そも禅にも、大本の仏教にも、聖凡の区別は本来ありません(禅語ですと⁠廓然無聖⁠なんて言葉もありますね⁠⁠。

規矩行いは、⁠何故そのルールがあり、それは今の状態にとって必要なのか」を、常に考えながら「必要に応じて最小限」だけにとどめるように、心に留め置きたいものです。

もし、そのルールが「本当に重要なもの」であれば。ルールを破って、一番重い火傷をするのは当人なのですから。

禅語「好語不可説尽」

ランク:上級 カテゴリ:教育

法演の四戒もこれが最後になります。最後の戒めは、こんな感じです。

「好語不可説尽(好語説き尽くすべからず⁠⁠ 説尽人必之易(好語説き尽くせば人必ずこれを易る⁠⁠。

ある程度色々な言葉を覚えると、特にそれが「好い言葉」である場合、とかく人に伝えて伝えて伝えたいものなのですが、禅ではそれを戒めています。

それは何故でしょう?

一つには「言葉だけでは伝わらない⁠⁠。二つには「押しつけても届かない」というのがこの言葉の真意になります。

例えば。火傷がどれだけか痛くて辛いことを、どんなに言葉を尽くしたとしても。言葉で痛みを正確に伝える事はできません。
例えば指先の細工物の仕方を、どれだけ「言葉だけ」で伝えても、指が動くわけでもなければ感覚が掴めるわけでもありません。 何となく頭だけで考えて、わかった「つもり」になって終わってしまうでしょう。

また。
受け入れる準備ができていない人に百万言を費やしたとしても。相手が受け入れる気がなければそれはただの騒音、ノイズに過ぎません。

これが「好語説き尽くせば人必ずこれを易る」です。

易るは「あなどる」と読みます。この部分を「安んず」とするところもあるようですが、意味合いはいずれも同じです。

言葉は、きちんと選べばわかりやすいものになりますが、一方で「非常に軽い」こともまた、事実です。 ⁠百聞は一見に如かず」という言葉もありますね。

だからこそ。
⁠わかりやすい」長所を最大限に生かしつつ「軽い」という短所を補うためにも、好語はタイミングが重要であり、なおかつ「説き尽くすべからず」なのです。
途中までは道案内をするけれども、最後につかみ取るのは己の力でなのだぞ、と言っているのです。

どうしても「つい」1から10どころか100まで口を出してしまいたくなるところを。 どこまで「ぐっ」とこらえて相手を信用して。本当に重要な勘所のピンポイントを「わずかばかりの言葉」で誘導だけして、後は当人に悟らせるか。

上職たるあなたの腕が経験が知恵が、問われる瞬間なのではないでしょうか?

「好語説き尽くすべからず⁠⁠。人を指導する立場において、何よりも旨に留め置きたい一言なのではないかと、私は思っております。

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