禅で学ぶ「エンジニア」人生の歩き方

第7回人と共に生きる その2

前回に引き続き、今回も「他人との距離」に関する禅語をいくつか取り上げてみたいと思います。

前回「出逢うためのインタフェース」について言及をしてみましたが、今回は「師と弟子を繋ぐ」3つの禅語を取り上げてみます。

禅語「松無古今色 竹有上下節」

ランク:新人 カテゴリ:コミュニケーション

日本語で読みやすく書きますと「松に古今の色無し 竹に上下の節あり」となります。

さて。この禅語にはいったいどんな意味があるのでしょうか?

この禅語を読み解くには、その中にある「二つの対になる、全く異なる概念」の双方をバランスよく理解する必要があります。あるいは「物事は常に、対になり異なる概念が共存していること」を理解する必要がある、と言い換えてもよいでしょう。

新人だからこそ見える、上司の無理無茶無知っぷり、というものがあります。

「上は気楽でいいよな」⁠ちょっと先輩だからって」などなど、思ったことはありませんでしょうか?

よく「上司三年にして部下を知らず 部下三日にして上司を知る」などとも言いますが……上司たちは、本当に「新人の心」をすっかりと失ってしまったのでしょうか?

松無古今色。
松は、常緑植物と呼ばれる「年間を通して葉を失わない植物」です。また、その翠は古木であろうとも若木であろうとも、変わらずにみずみずしい緑色です。そこに、人は「一切平等」を見ました。

例えば、美しい花を見る時に感じる心は。好みのタイプを見て心が躍るさまは。心の動く様思いの感じる様は。年齢の高低を問わず、変わらないものなのではないでしょうか?

そこに、古今の色はありません。

竹有上下節。
竹には節があり、そこには当然「節の上の方」「節の下の方」とが存在します。ここで「全ては平等であって区別などあり得ない」と騒いでみてもよいのですが、存在すること自体は、厳然たる事実です。

例えば「職場での経験年数」であるとか「スキルの高低」その他。人によって「差違がある」事柄は、当然ながら多々存在します。

そこには、上下の節があります。

「区別あり 平等あり」という言葉もありますし、また「人、その性は不違 その現成は別」という言葉もあります。
本質として、或いは可能性としての「性」の優劣は、ないと思います。
しかし、その性をどのように育てていくか、今まで育ててきたかという「現成」には、れっきとした差違があるのです。

ちなみに。⁠差違」であって、必ずしも「優劣」ではない事に注意してください。

きっとあなたが感じることと同じようなことを、先輩たちも感じているはずです。そこに古今の色はないのです。

ただ。先輩たちは、あなたよりも多くの経験を積み、知識を得た上で。場合によっては、あなたとは全く正反対の答えを出すかもしれないのです。大変であることを踏まえてなお、無理を言わざるを得ない状況なのかもしれないのです。

先達を「意味もなく批判し敵視する」のは簡単です。しかし、松に古今の色無し、です。もしかしたら、同じ憤りを、上司も感じているかもしれないのです。
その上でなお、厳しい判断をするのだとしたら。一度は「竹に上下の節あり」と考えてみるのもまた、一興ではないでしょうか?

禅語「卒啄之機」

ランク:中級 カテゴリ:コミュニケーション

そったくのき、と読みます。

卵生の生物をイメージして貰いたいのですが、卒とは「雛が、卵の内側から殻をつつくこと(または雛が内側から声を発すること⁠⁠」で、啄とは「親が外側から殻をつつくこと」です。
卒啄之機とは「卒と啄とのタイミング(機⁠⁠」という意味の言葉になります。

物事を教える時に、極論の2つの方向があるのですが……極論にふさわしく、どちらも「大抵育たない」方法になってしまいます。

一つは「徹底的な座学⁠⁠。⁠書籍その他による独習」もこれの一種なのですが。
もう一つは「徹底的な現場主義⁠⁠。OJTなんて単語を使うと綺麗ですが。

この二つは、残念なことにどちらも「片手落ちに過ぎる」方法です。

特にプログラミングにおいて(もっとも正確には「どの業界においても」なのですが⁠⁠、⁠とにかくひたすらにコードを書けば上達する」という考え方は、徹頭徹尾間違えています。駄目なコードを10年書いても、スキルは駄目なままなのです。

「現場でn年頑張ってました」と年数だけを高々と掲げる人は、厳しい物言いをすると「年数以外に胸を張れるものがない」わけです。そうしてその場合、得てしてスキルは「低めのところでそれなりに」しかないことが多いようです。

きちんとした理論背景、問題点を認識する知識と目、その問題点の解決の仕方など。 先達からきちんと教わり、学ばなければならないことは決して少なくありません。

一方で。比較的誤解されやすいのが「座学による学習」です。

当然といえば当然なのですが、どの業種においても「実地を伴わない学習だけで熟練できる職業」などというものは存在しません。

まず実際にコードを組み、相応のトラブルを体験した上で、初めて学んだものが血となり肉となるのです。 座学と読書だけでは、非常に低いところで数々の「ハードル」が襲ってきます。

この文章は「中級」を想定してみました。そういったキャリアの方々は、ちょうど「教わることもあり」⁠教えることもある」立ち位置だと思います。

教える時は。⁠全てをいきなり」教えてはいけません。
教わる時は。⁠全てをいきなり」聞いてはいけません。

それは経験を伴わないために、結局は「言われたことがよくわからずに右から左に抜ける」ので、平たく言って時間の無駄です。

そうして、独学だけでは駄目です。自らの経験の後できちんと「教えを乞う」ことを忘れてはいけません。

経験をして困難にぶつかることを、よく「壁にぶち当たる」などと言いますが、おおよそ言い得て妙だと思います。 経験をして。壁を認識出来た上でその壁をぶち破るからこそ「breakthrough」だと思います。

そうして壁を「殻」と読み替えると。
それこそが卒であり啄であり、それ故の「卒啄之機」です。

殻を認識する前に外から殻を砕いてしまえば、ひな鳥はそも「そこに殻があったこと」すら学べず、もう一度同じミスをします。

ひな鳥が必死に殻をつつき、声を上げているのに放任主義をしてしまえば、ひな鳥は力尽きてしまうかもしれません。

まず自分で多少なり経験し、考察をしてから教わるからこそ教えるからこそ、その言葉が「身に染み入る」わけです。
そのタイミングを丁寧に見極めるからこそ「師」たるのです。

教える時に教わる時に。是非、タイミングを見極めてください。

ひな鳥が十分な力を付けた上で、ちゃんと殻が破れるように。
その「タイミングを見極める」こともまた、一つの学習であり、熟練なのですから。

禅語「誰家無明月清風」

ランク:上級 カテゴリ:コミュニケーション

明月に清風という、非常に美しい光景をよんだ、好みの言葉です。

誰が家にか明月清風無からん。明るい月の光や清らかな風が届かないような家がどこかにあるだろうか?

反語ですね。⁠いいやない。誰の家にも明るい月の光や清らかな風は平等に届く」という文章が続くイメージだと思います。

現実問題として「この人の家だから月の光が(自分の意志で)差さない」とか「あの人の家だから風が(自分の意志で)避ける」とかいうことは普通に「ありえない」と思うのですが。

では。
この禅語はこんな当たり前のことを通して、何を伝えたいと思っているのでしょうか?

一時期。⁠ホテルマンは靴を見て客(の懐具合)を値踏みする」なんていう話がよく出ていました(真偽のほどはもう一つ不明ですが。⁠判断材料の一端にしている」という現職の方のお話しは幾度かうかがったことがあります⁠⁠。

一休禅師がやった「みすぼらしい袈裟と豪華な袈裟の話」をご存じの方も多いかと思います。
……ご存じない方のために簡単に書くと。お経を上げるために招かれた家に、はじめは見窄らしい袈裟を着ていったらけんもほろろに追い出され、豪華な袈裟を着ていったら下にも置かぬもてなしを受けた、というお話しです。一休禅師が言い放った台詞が秀逸なので、是非調べてみてください(⁠⁠袈裟 一休」⁠豪華な袈裟 一休」あたりのキーワードで、色々と出てくるかと思います⁠⁠。

無論。外見が一切不要だとは、思いません。
接客の世界では「真実の15秒」という言葉もありますし、そも見た目は「その人が⁠他人にどう見られたいか⁠の意思表示」でもあるわけですし。

しかしそれは「見られる側」に必要な考え方です。
見る側が持つべきなのは「虚飾を看破する目」であり、そのための第一歩として必要なのが「見た目で判断を下さずに、落ち着いて相手の本質を見る目」なのではないでしょうか?

他人の態度は、多くの場合「自らの鏡」になります。
初見でいきなり相手に敵意/害意を持てば、相手もまたそれを感じて身構え、結果として非常に好ましくない空気が、二人の間を流れることになります。

相手の見た目を地位を懐具合をその他を基準に。蔑んだり下に見たり敵意を持ったりしていませんか?

上に立てば立つほど。つい勘違いしてしまうことも多く、一方でそれをとがめてくれる人はどんどんと減ってしまいます。
そうして「表面だけは愛想がよいまま」心はどんどんと離れていき、気がつけばひとりぼっちになってしまうかもしれないのです。

その前に。
陽光を月光を星を風を雨を虫の音を様々を五感で感じながら。
⁠誰家無明月清風」という禅語の意味を、今一度、しみじみと噛みしめてみませんか?

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