禅において、成果や結果とは「自然にそこにたどり着くものだ」と教えています(結果自然成)。
「何かをすればその結果が現れる」のは当然……のはずなのですが。特にそれが「努力をした結果としてのなにがしか美味しい果実」場合、「本当にその果実が実るのかどうか」どうしても人は不安に駆られてしまうことがあります(「よくないことをした結果としてのなにがしか苦い果実」ですと「実らないことを祈る」ものなのですが)。
また一方では。努力をせずに結果を求めたり、或いは行動を起こす前に「どうせできるはずがない」と、さも賢しげな振りをした逃げというのも時として念頭によぎることがあろうかと思うのですが、いかがでしょうか?
期待しすぎず、逃げ出さず。淡々と日々のつとめを行うことの大切さを。
今回は、取り上げてみたいと思います。
禅語「随處作主」
ランク:新人 カテゴリ:職場にて
「随処作主 立処皆真」と続き、ずいしょさしゅ りっしょかいしん、と読みます。
「常に(自らを)主として動くのであれば、どんな所に立っていてもそれは総て真である」という意味です。
概ね読んだままではあるのですが、その大切さを、あえて少しいろいろな言葉を重ねることでもう一度見ていきたいと思います。
占いをやってますと(実は……でもないのですが。プロとして、占い師もやっています)、時々職業の相談に来られる方がいらっしゃいます。
無論色々なケースがあるのですが、そのうちの一つに「あたしに向いている職業は/適職はなんでしょうか?」という質問がございます。
色々と星で見たりカードで見たりお話を伺ったりするのですが、端的に言ってしまうと、多くの場合「今の仕事がなんとなくいやで逃げ出したい」が質問の根っこにあったりするんですね。
ただ、その因を自分に持ってきたくないので「きっとあたしはこの職業には運命的に向いていないに違いない」という論理に走るわけです。
こういう方は正直、その後「転々と職業を変わった」挙げ句に、多くの場合においては「一番はじめの職業が一番よかったかもしれないわ」なんてつぶやくわけです。
同じように、恋愛で「相性」を妙に気にされる方もいらっしゃいます。
恋愛や結婚で別れる原因というのは、概ね(それが理にかなっているか理不尽かはさておき)はっきりとしているものなのですが。
その現実を見ようとせずに「相性が悪かったから」で片付けてしまう方が、時々、いらっしゃいます。
人のせいに、或いはなにかほかのもののせいにするのは、それは一見、とても楽なのですけどね。
でもそれだとどうしても「総ての因を他人に求めてしまう」ために身が入らず、結局の所「苦痛な時間」を過ごすことになってしまいます。
それならばいっそ、全力で、自らの意志で「進んで」やってみるのも一興だと思うのですが、いかがでしょうか?
同じ作業であっても。
むすっとした顔でやるとどうしても効率が落ち、口の端っこを筋肉で持ち上げて無理矢理にでも笑顔を作ると、それだけで少し効率が上がる、なんていう研究成果もあります。
随処作主 立処皆真。
「向き不向きよりも 前向きに」なんて言葉もございます。
文句を愚痴を言う前に。自らの適性なんてものを気にする前に。
まずは一回、全力で頑張ってみませんか?
禅語「魚行きて水濁る」
ランク:新人 カテゴリ:職場にて
うおゆきてみずにごる、と読みます。
「魚が通り過ぎればその水流で水が濁る」という現象から「起きたことは隠せない」という意味を表す禅語です。
良い意味合いにも悪い意味合いにもとれる言葉ですが、その双方を眺めてみましょう。
まずは、悪い意味。これは「どんなに隠れて悪いことをしても、いつかどこかで相応の何かが起きるよ」という意味になります。
因果応報とか天網恢々疎にして漏らさずとか、いろいろな言葉がありますね。お説教なんかに出てきそうな意味合いです。
でも。
この悪い意味は、そのまま「良い意味」に変わっていきます。
悪いことをした、という行動が水をそのように濁すのであれば。良いことをしたら、やっぱりそのように痕跡が残るのです。
確かに。ほんの少し良いことをしたからといって「すぐにみんなが気付いて大絶賛」というわけではありません。
ほんの少しの努力ですぐに「認められて褒められる」わけでも、ありません。
わずかな勉強で「すぐに知識が身につきスキルアップする」なんてこともありません。
それでもなお、その良いことは、努力は、きっとわずかでも、痕跡を残しているのです。
そうして、その痕跡は思わぬところで返ってくるのです。
因果応報という言葉は、実は悪い意味だけではなくて。「善い行いをすれば善い行いが返ってくる」という、そんな意味もあるのです。
そうして、それはどんな行動にも。
もし悪い行動をしてしまったら。素直に「ごめんなさい」と言いましょう。少しだけ、態度で表してみましょう。
同じように。
ミスはどこにでもあるものです。バグはどこにでもいるものです。
肝心なのは「ミスをしないこと」ではなくて「すぐに修正できること」。過ちてなおあらためざるから、その行動は「過ち」になるのです。
気付いたら、すぐに修正することを心がけること。
それが「修正しやすい設計」になったのであれば。
それは多分、例えばオブジェクト指向であったり、アジャイル開発であったり、そんな名前が付くテクニックになるのだと思います。
悪いことをしてしまって、その結果居場所をなくすのではなくて。バグをセキュリティホールを、見なかったふりで蓋をして後でとんでもない騒ぎにするのではなくて。
気付いたらすぐにごめんなさいをしてみてはどうでしょうか?
見つけたら、すぐに修正を、或いはソースコードの管理上の問題などがあれば、せめてメモと報告をしてみては如何でしょうか?
きっと、その結果がどこかで返ってきます。
禅語「真玉泥中異」
ランク:中級 カテゴリ:職場にて
「しんぎょくでいちゅうにいなり」と読みます。
真玉とは、宝石のことです。個人的には「大きな真珠」とかそんな感じのパールホワイトが、コントラスト的にも綺麗なイメージがあって好きですね。
「泥の中にあっても、宝石は泥にはならず、宝石のままである」という意味合いの言葉になります。相も変わらず「ごくあたりまえ」の禅語です。
この言葉と対になって筆者が思い出すのが「朱に交われば赤くなる」という言葉なのですが。
この「朱に交われば赤くなる」という言葉を、私達はつい「自らの言い訳」として使ってはいないでしょうか?
こんな所にいるから私は評価されないんだ。
こんな場所だから芽が出ないんだ。
別の場所にいけば、もっとあたしらしいあたしになれる。
周りがこんなんじゃなければ、ぼくはもっと凄いんだ。
程度の低い連中ばかりば周りにいるから自分も駄目になっちゃうんだ。
だから、“ここ”から移動すれば、きっとうまくいくはずなんだ!!
でも。
それは、本当でしょうか?
移動すれば、本当に「芽が出て」「評価されて」「凄い自分になれる」のでしょうか?
もちろん、一つの方法として「その場所から移動する」ことが、とても大切なことも多々あります。いわゆる「ブラックな企業」さんとか。そこに意味もなくしがみつくのは、文字通り「命を削る」選択肢になりかねませんし、そんなところに「いなさい」と言うつもりは1bitたりともありません。
強い意志を持って「逃げる」という選択肢を、むしろ全力でお薦めいたします。
ただ。
もし「今の場所から移動したらきっともっと何かいいことがあるんじゃないか」という弱い動機であるのであれば。
もう一度、移動することについて真剣に向き合って考えてみてもよいのではないでしょうか?
「今の場所では絶対にできない」&&「移動したら絶対にできる」の式の結果は。それは、本当にtrueですか?
真玉泥中異。
泥の中にどれだけかいても、玉はその輝きを失うことはありません。
「今自分がいる場所と周り」のせいにするのではなくて。
自らが持つ本当の輝きを、もっと信じてみてはいかがですか?
禅語「竹影掃階塵不動」
ランク:上級 カテゴリ:スキルアップ
「竹影掃階塵不動 月穿潭底水無痕」と続き、これは「ちくえいかいをはらってちりうごかず、つき たんていをうがってみずにあとなし」と読みます。
月明かりに照らされた中。
竹は風によって揺れ。竹の影はまるで塵を掃いているように見えるのですが、塵はぴくりとも動きません。
水面に映る月は、まるで池底まで穴をうがつかのように写ってますが、水には微かな波紋さえありません。
晩秋の夜中、とか勝手に連想してみたりするのですが。
情景としては非常に美しいですね。ここで絵心の一つもあれば、是が非にも絵にしてみたいところです(絵心が皆無なことがあらためて悔やまれます)。
この美しい禅語は、我々に何を語りかけてくるのでしょうか?
過去において。さまざまに素晴らしい「何か」が、きっと皆さんもおありだろうと思います。
未来への目標を高々と掲げて、それに向かって努力をされているかたも多かろうと思います。
偉大なる金字塔を打ち立てた業績を軽んじるつもりはないのですが。
「目標に向かう努力」を否定するつもりはないのですが。
ただ。
時々、それにとらわれている人が見受けられるように思うのですが……みなさまはどうでしょうか?
過去の栄光は。
その栄光そのものではなくて「そこにたどり着くまでのさまざま」が素晴らしいのです。
たどり着いてしまえば、待っているのはその次。第8回でやりましたが、百尺竿頭須進歩、でございます。「過去の成功なんて角砂糖一個の栄養もない」とおっしゃった、漫画に出てくる女社長さんもいらっしゃいました。
未来へ向かう目標は。
「切磋琢磨するための道具」であればよいのですが……いつのまにやら本末転倒、「目標をクリアすること」そのものに主眼を置きすぎてしまい、大本の「なぜその目標を立てるに至ったか」という根底部分をすっかりと失念してしまうケースが、なきにしもあらずかと思うのですがいかがでしょうか?
竹影掃階塵不動 月穿潭底水無痕。
竹影は月は、何の痕跡も残しません。
でも、それを見たあなたの心には、きっと大きな痕跡を残しますよね?
そうしてそれは「“あなたの心に痕跡を残すために”竹影が動き月が水面に映る」わけではないですよね?
誰かの周りの業績の評判のためではなく。
ただただ無心にひたすらに「努力を積み重ねる」大切さもあるかと思うのですが、いかがでしょうか?