今回は「自由になるために起業」することと社会に対する貢献の意義・意味について取り上げます。
この連載のタイトルは「起業幻想」ですが、これは端的にいえば「好ましくないと思う起業」についての持論の展開をしています。好ましい、つまり、するべくしてする起業は別に良いのですが。
連載の第1回は、背景としての起業ブームについて触れました。
第2回となった前回は、
全部が全部というわけではないですが、エンジニアの起業の場合、とくに「自由に働きたい」と「自分の理想のサービスを実現したい」という理由で起業するケースが多いような気がします」
としたうちの後者「自分の理想のサービスを実現したい」について触れました。今回は前者について触れてみたいと思います。
正直このテーマについては、連載を通してもかなり持論の割合が高いのであまり共感が得られないと思っています(笑)
自由になるための起業とは
自由になるための起業というのは、起業というより独立という言い方のほうがふさわしいかもしれません。フリーランスになるパターン、仲間数人で会社を創業するパターンなど、だいたいこじんまりしたケースが多いようです。
エンジニアが「自由に働きたい」という理由で独立し、社員数十人とか売上数億円という会社になるケースはあまりないような気がします。
自由に働きたいから起業する場合を考えてみると、一番の目的が「自由の獲得」になるため、それを実現する手段=事業内容にはさほどこだわりがないことが多く、むしろ自分が得意なジャンル=一番効率良く自分のスキルをお金に替えられる方法を採ることが多いように思います。パターンとしては、業務委託契約を結んで報酬を得る、案件を受注して納品して代金をもらう、自社サービスや媒体で広告収入や手数料収入を得る、などが多いのではないでしょうか。
そして当然ながらそれは、行き詰まることなくずっとそれでやっていけるケースもあれば、行き詰まってやはりどこかの企業に就職するという2パターンに分かれます。
筆者が考える自由のための起業の問題点
その前提で、今回述べたい内容としては、大きく2つあります。
- 起業・独立してもうまくいくとは限らない
- 自由の獲得が良い選択肢とは思えない
の2つです。とくに2つめは筆者の純粋な持論です。
起業・独立にはらむリスク
根拠のない見積もり、見切り発車は危険
まず1つめの「独立してもうまくいくとは限らない」について話します。
これはまあ一番わかりやすいテーマでもあるでしょう。
実際、「なんとかなるだろうと思って独立したらなんとかならなかった」というような、楽観論が通用しなかったケースを目にした方もいるのではないでしょうか。たとえば、業務委託で仕事はもらえるだろうと思って独立するケースや、前職の職場から「独立したら仕事を回すよ」と言われて独立するケース、周りから「独立すればなんとかなるよ」と言われて独立するケースなどは、予想通りにいかず、まったく仕事がないなんていう展開になることは充分にありえます。いわゆる見切り発車でうまくいかないパターンです。
また、独立する前から自分でブログなどを書いていて、そこでそこそこの広告や手数料収入が得られているようなケースでも、当面はまかなえたとしても、たとえばGoogleの検索ランキングの急落やアフィリエイトの料率低下など、自分ではコントロールできない外部要因で行き詰まってしまうこともありうるでしょう。
いずれの場合も「自由を獲得するほどのスキルがなかった」と言ってしまえばそれまでですが、こういうリスクを想定すると、単なる楽観論で独立するのはやはりオススメできません。
このように「自由を求めたけどうまくいかない」ケースは、前回お話した理想のサービスの実現を目的として起業したり独立して失敗してしまう場合と似ています。
「うまくいく」を継続できるかどうか
次にうまくやっていけてるケースについて考えてみます。うまくいくケースには、「スキルをうまく対価に変えている」ものもあれば、「単に自分を売り込むのがうまい」というものもあります。ただ、後者の場合、(まったく裏付けがなければ)そのうち化けの皮が剥がれるパターンが多いため、契約先を焼畑農業のように転々としていくという、自転車操業的な展開になりがちです。
また「スキルをうまく対価に変えている」、すなわち優秀なエンジニアが妥当な評価の元に満足のいく報酬を得ている場合でも、それが20年とか30年とかいうスパンで続くかというとこれは難しいと考えます。
スキルを対価に変えられるエンジニアの立場として、当人が考えうる将来(人生)に対する意識には、
- 現役エンジニアとして活躍できるうちに安定した収入が得られるサービスを作り上げたい(売却などのExitも含む)
- いずれ結婚し子どもを産んで子どもに養ってもらいたい
- そもそも深く考えずに独立してしまった
- いずれはまた就職すればいい=暫くの間だけ自由を獲得したい
などが考えられます。さまざまな考え・意識はあると思いますが、筆者がこれまで目にすることが多かったのは「深く考えていない」か「何かあったらまた就職すればいい」と思っているケースです。企業や独立の目的、必然性がないとそうなるケースが多いように思います。
そもそも自由の獲得は良い選択肢なのか?
さて、2つ目の「自由の獲得が良い選択肢とは思えない」について話します。
私の完全な持論として「人は自分の持っている能力を最大限社会に還元できるようにするべき」だと考えています。その前提で話を進めます。
高いスキルは独立以外にも役立つ
今の世の中、ものすごい贅沢をしたい場合はさておき、そこそこ満足のいく生活をするために必要な収入というのは、さほど人によって変わらないと思います。そうなると「能力=スキルが高いエンジニアのほうが容易に、それ(そこそこ満足のいく生活)を達成しやすい」と考えられます。高い能力のほうが高く換金できるからです。その結果、職種としてモノを生み出すスキルがあるエンジニアのほうが「(独立してやっていけるだけのスキルがあると思うので)独立しよう」と考えがちです。
この「独立しよう」という点で、私は別の見方をしています。そういう(スキルが高い)エンジニアは、「優れたビジネスモデルに基づいた優秀なチームで働くほうが社会に対して能力を還元できる」と考えています。なぜなら、優秀なチームにスキルが高いエンジニアが所属することで大きな価値を生み出す可能性が高まるからです。
そのチームから生み出される収益、キャッシュフロー、発生する雇用、さらに細かく言えば法人税、所得税、原価や経費といった他の個人法人への発注、そこから上がる収益(以下ループ)……といういわゆる「経済効果」が最大化していくからです。
また、経済面だけではなく、同僚が優秀なエンジニアから受ける刺激による成長、高いハードルに応えることで生み出される新しいテクノロジーなどの技術的なフィードバックもあるでしょう。
もちろん、個人や小さいチームでも素敵なサービスを生み出すことはありますし、実際存在します。しかし、要求されるスケールやアベイラビリティを定量的に評価すれば、そこで要求されるスキルやテクノロジーにはかなりの違いがありますし、得られる結果が異なります。経済効果という単語に対しての、技術効果と言ってもいいかもしれません。
会社の規模は個人の能力に対する社会へのレバレッジ
会社の規模は個人の能力に対する社会へのレバレッジです。会社やチームというのはパワードスーツやテコのようなものです。同じ規模の会社であれば、優秀なエンジニアほど社会との接点において大きなアウトプットを生み出せますし、逆に同じエンジニアであれば大きな会社ほど大きなアウトプットを生み出せます(もちろんそれでも大きいだけですでにビジネスモデルが破綻してしまっていたり時代にそぐわなくなっているようなケースはもちろんあります。筆者がここで言っているのは、大きくなるべくして大きくなった会社のことです)。
GoogleもFacebookもAppleもAmazonも、優秀なビジネスモデルのもとに優秀なスタッフが集うことで、あれだけの社会へのアウトプット、すなわち経済的、技術的、社会的影響を生み出しています。
ところが問題なのは、そうした企業に属する優秀なエンジニアほど「独立してうまくやっていける可能性が高い」ことです。しかし、そこそこ満足のいく生活をするために必要な収入というのはさほど変わりません。10倍優秀なエンジニアだからといって10倍の収入が必要にはなりません。大きなチームに所属して自分のアウトプットにレバレッジを効かせることではじめて自分が必要な収入が得られるならば、そうすることでしょう。
レバレッジを効かせなくても得られる場合、すなわちスキル(の換金性)が高い場合、独立してもやっていけるとういことになります。しかも優秀であればあるほど、そのスキルの一部を換金するだけで良くなるので、よりプライベートを充実させることができるということになります。
必要な収入には大差がないために「大きな効果を生み出せる人ほど生み出さなくていいほうにいってもやっていける」のです。なんというジレンマでしょうか。しかもエンジニアは他の職種に対して相対的に「あくせく働くよりも自分(とその家族)が満足できる収入を得られればあとは自由に生きたい」と考える傾向が高いように思われます。
端的に言えば、「優秀であるほどレバレッジを効かせる必要性がなくなる」ということです。そして、これはそのまま、「レバレッジを効かせていれば生み出されていたであろう経済効果や技術効果が失われている」ということです。
これが、筆者が考える「自由の獲得というのが良い選択肢とは思えない」の本質です。
目先の自由・身の回りの幸せだけではない、全体を見て考え、参加する意識
ここで先ほど述べた「人は自分の持っている能力を最大限社会に還元できるようにするべき」という持論に戻ってみます。
能力があって、それをうまく活用して、独立して自由な時間を得て、自分の能力は必要最小限のアウトプットに留めるというのは、ただの独善的な考え方です。「自分の人生なんだから自分で決めて何が悪いのか」「自分の人生をより楽しむように生きて何が悪いのか」という意見もきっとあるでしょう。というかそっちのほうが多いでしょう。
しかし、会社というレバレッジを使わなくてもやっていける人がみんなそう考えたら、現在の世の中の経済は維持できないでしょう。優秀なスキルを活かして独立してやっている人が得ている収入は、大きな経済の上に立脚しています。そういった人たちの収入源は、経済規模があるからこそ生み出されているものです。
つまり、極端なことを言えば「大多数の人たちが会社やチームに所属して個々の能力にレバレッジを効かせることで経済規模を維持してくれているので」「ごく少数の優秀な人は自分の能力を社会に還元しないでプライベートを優先した楽しい人生を送ることができている」のです。
みんながそれをやったら経済が維持できない、ごく少数の人たちがやっているだけなので維持できる、これはつまり独善的な考え方です。優秀な人は、経済に貢献して、他の人に刺激を与え、テクノロジーの進化や発展に貢献する高貴な義務があると、私は考えています。
「働いたら負け」とか「フリーランスは勝ち組」なんていうことはありません。
仕事というのは必要最小限だけやってあとは人生を楽しむ、その楽しむ人生を構成する要素、たとえば、各種コンテンツであったり移動手段であったり電力であったりデバイスであったり食料であったり……。それらは「仕事=労働」によって生み出されていることを忘れてはいけません。
仕事というのは人生を楽しむための犠牲ではありません。仕事と人生=社会というのはそれで1つの環を構成しています。「自分さえ良ければいいのか」というのはなかなか深遠なテーマです。それを否定する意見をすべて無視できるくらいの誘惑を備えています。
であるがために、世の中には道徳というものが必要なのだと、私も40歳を過ぎてようやく思うようになりました。
今回は「起業幻想」というテーマから少し外れてしまいました。
次回からまた話を戻して、なぜ起業してうまくいかないのか、会社や事業の仕組みとつまづきやすいポイントについて述べてみたいと思います。