倉橋歪莉の狂乱プレゼンから数日、社内は異様な空気に包まれていた。なにかがあるわけではないが、オフィスのいたるところに覚醒剤の霧が立ちこめているような感じだ。

霧を吸い込むと万能感に満たされハイになる。霧の効果が切れると被害妄想に襲われ、不安のどん底にたたき込まれる。歪莉の精神状態がアウトブレイクのように社内に広がった。いつもは整然とした社内が、まるで閉鎖病棟のようなありさまだった。

その騒ぎも落ち着いた一週間後、内山計算がプレゼンを行った。

• 「これが……SNSの処理系風解説ですか……」

和田は壁面に投影された内山の方程式をながめた。会議室の室員一同は、ぽかんと方程式を見つめる。誰も理解できない。

• 「はい。ご説明します」

内山は大福のような白い頬を少しだけ赤らめて答えた。内山計算。ブログ事業部からの出向。全てのプロジェクトにおいて専用の言語を開発し、誰もメンテナンスできないというやっかいな事態を引き起こした。誰も求めていない天才。『⁠X-MEN　ファーストジェネレーション』に出てくる超能力者のようだ。チョウチョの羽で飛べるとか、脚がサルだとか、なんの役に立つんだか全くわからない。もっともシリーズ通しての主役ウルヴァリンの能力も、やたら元気でツメが伸びるだけなので、他のメンバーは推して知るべしとも言える。

内山は、とうとうと話し出した。ふだんの無口な姿からは想像できない。飄々としたその姿は、渋江内膳を彷彿とさせる。

マズローによれば人間の欲求は五段階に分かれ、その最上位が自己実現の欲求とされています。自己実現の欲求は、自己同一性の実現と言い換えてもよいでしょう。

少なくとも当社に所属している時点で社員の3分の1は、5段階目に達していると考えてよいと思います。残りの3分の2は、ブラック企業に過剰適応して思考能力を喪失しています。思考能力を喪失すると、チューリングテストにパスしません。つまり彼らは人間の条件を満たしていませんので、ここでは除外します。

自己実現の欲求や自己同一性の実現は、大きく2つの要因に分けてアプローチできます。1つは帰依する集団。もう1つはその強度です。

たとえばSNSに耽溺する者は、SNSを帰依する対象として位置づけているわけです。現実社会において、ひとりの人間はさまざまな集団に所属しています。家族、勤務先、ご近所あるいは宗教団体などです。その中から1つだけ、自分がもっとも強く帰依する集団を選ぶわけです。

帰依する集団が決まると、次に問題になるのは強度です。バランスよくいろいろな集団で活躍できる者もいれば、帰依している集団だけに特化してのめり込む者もおります。SNSでは廃人という表現を使われるまで耽溺する人がいます。そこまでいくと、その強度は最強と言えます。帰依することを同定依存と命名しました。

今回は、同定依存方程式を作り、その関数を組み込んだシミュレーションシステムを設計しました。言語仕様はDYNAMOの拡張版になっています。

基本方程式はこれです。

わかりますよね？　詳細な説明は不要と思いますのでしません。

SNSにおいて最も注目しなければならないポイントは、行列Sです。人はなぜ特定の集団を帰依対象として選ぶのか？　それはSによって定義される外部の要因によります。

外部要因はダイナミックに変化します。そこで、ネットワーク上のアクティビティを動的に監視し、外部環境要因をリアルタイムで抽出するアルゴリズムを組み込みました。定期的にネットをクローリングし、データマイニングした上で要因を決定しています。また、ベースとなる情報として、アメリカのユタ州にあるNSAのデータセンターからＰＲＩＳＭのメタデータと、韓国ソウルの地下データセンターにあるLINEのメタデータを拝借しています。

ちなみに僕自身の開発環境はNSAのデータセンターに構築したクラウド上にあります。当初はニフティのデータセンターに置いていた。しかしあそこは重篤な事故を起こして都銀三行のATMを停止させてしまったことを、ずっと隠蔽していたので信用できなくなりました。追い打ちをかけるように、2013年7月には、21,184件のIDに不正アクセスを受けましたが、明確な根拠を示さずに他社から漏洩したのであろうと結論しています。テクニカルスキル、マネジメントスキル以前の問題として、ニフティ経営陣にはモラルがないというのが僕の結論です。

以上の手続きを経て生成されたのが、次の式です。これは遷移確率行列となっています。

そこで内山はいったん言葉を切った。和田の脳内には、『⁠コワレ者』が響き渡る。ニフティという言葉を聞くたびに再生されるのだ。どこかで紐付けされてしまったらしい。