『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第16話 『TAICHI ZERO』内山がキューブ型合体ドローンの制御を奪い、 NFC社員テーマ曲システムがワルキューレの騎行を奏でる時、 鬱垢グラフ分析が始まる

その日網界辞典準備室の室員は、緊張の面持ちで会議室に集合した。ふだんは騒がしい彼らだが、今日は静かだ。倉橋歪莉は、シャープペンシルをずーっとカチカチとノックし続けている。芯が一本完全に出てくると、それを拾って口に入れようとする。だが、寸前にイケメン水野が無言で手を押さえて止める。そしてふたりは、見つめ合い、真っ赤になる。その繰り返し。童貞と処女の歪んだ純愛無限ループ。

篠田は自前の衛星通信装置を背負ったまま席に腰掛けている。電波の具合が悪いらしく、時々アンテナを調整している。

内山はMITの研究室からキューブ型合体ドローンの制御を奪って盗み出そうと腐心している。キューブ型ドローンは、10センチくらいの正立方体の超小型ロボットだ。磁力により重心を変えて移動することができる。そして複数のドローンが合体することにより、さまざまな活動を行うことが可能となる。

  • 「キューブ型ドローンを近くにあるクアッドコプター型ドローンに接続できれば、そのまま飛ばせて持ち出せるはず」

内山は、誰にともなく説明している。くちずさんでいるのは『妄想税』だ。

混沌とした時間が十分ほど続いた後、どこからか『ワルキューレの騎行』が響いてきた。すぐに反応したのは篠田だ。眉をひそめ、周囲を見回す。この会社では、ごくわずかの許された者だけがテーマ曲を持つことができる。社員証のNFCと会議室のオーディオシステムが通信し、入室直前から入室して移動が止まるまで間本人のテーマ曲を流す。NFC社員テーマ曲システムは、社長発案のこの会社のオリジナル商品だ。

入場曲を持っているということは、それなりの大物が現れるということだ。篠田は会議室の入り口を凝視した。

会議室の扉が開いて長身の美女が現れると、一同の目が釘付けになった。綴喜堕姫縷(つづきだきる)だ。鋭利な刃物を彷彿させる笑顔を浮かべ、ミニスカートから伸びた長い脚を見せびらかすように歩いて会議室の前方中央の演台に立った。なぜこの女が入場曲を持っているのだという疑問が全員の顔に浮かぶ。

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  • 「綴喜堕姫縷と申します。宮内専務の秘書をおおせつかっております。半月前に着任いたしました。こちらの業務を必要に応じて手伝うように申しつかりました」

堕姫縷はそう言うと、全員を睥睨する。妖艶な視線を受けて一同は、たまらずうつむく。

  • 「あの人、なにかおかしいです。怖い」

小動物的な直感でなにかを察したのだろう。歪莉は不安を隠そうともせず、がたがた震え始めた。

  • 「お待たせしました」

そこに和田が入ってきた。青い顔で震えている歪莉と堕姫縷を交互に見て満足そうな笑みを浮かべる。それから演台に上がり、堕姫縷の横に立つ。

  • 「本日は、第一回のテーマの評価を発表いたします」

この会議は、第一回のプレゼンのどれを辞典に収録するかの発表のためのものだ。全員がそろってクセのある発表をした。いったいどれが選ばれるのだろう?

  • 「網界辞典に収録することになったのは、水野さんの『裸のソーシャル王子』です」

意外な発表に、全員があっけにとられた。和田は水野の発表を思い切り否定していたはずだ。しばしの沈黙の後、一同はざわめき出した。

  • 「疑問は、もっともです。私もあれが収録に値するとは思っていません。しかしながら、他の発表には問題がありすぎます」

和田は、そこで言葉を切った。

  • 「まず、篠田さんと内山さんの発表は、いずれも内容もしくは準備段階で違法行為を含んでいます。そんなものを収録するわけにはいきません」

和田はそういうと、篠田と内山をちらりと見た。篠田は苦笑し、内山は不満気に口をとがらせた。

  • 「倉橋さんの発表は……発表と呼べる性格のものではありませんでした。あれは、倉橋歪莉という人間の生き様をさらしたものであって、特定のテーマを解説するようなものではなかったと思います」

和田がそう言ってにらむと、歪莉は真っ赤になってうつむいた。⁠今晩死にます」とつぶやく。隣の水野が「そんなこと言っちゃダメだ」と小さな声で言い、歪莉の手を握った。和田はめざとく、それを見咎める。

  • 「また、死ぬ死ぬ詐欺ですか、Twitterでさんざん⁠死にたい⁠ってつぶやいて、まだ足りないんですか?」
  • 「え? あたしの鬱垢知ってるんですか!?」
  • 「もちろんです。室員の精神状態を知るのは室長代理たるものの責任と思っています。私だけじゃありません。みんな知っています。あなたこそ、内山さんの作った⁠死ぬ死ぬグラフ⁠を知らないんですか?」

和田がそう言うと、会議室のスクリーンに画面が表示された。歪莉の鬱Twitterアカウントの最近1ヵ月の統計が折れ線グラフで表示されている。横軸は日付、縦軸は「死にたい」もしくは類する言葉を発言した回数だ。一目で日ごとの「死にたい」気分の強さがわかる。

  • 「ひ、ひどい。プライバシーの侵害です」

歪莉は叫び、両手で顔を覆った。

  • 「公開アカウントの統計を取っているだけです。プライバシーの侵害には当たりません。どんなアカウントでも、特定の語彙と類似の言葉の統計をとれます。和田さんは他の室員の方のアカウントの統計をとったとうかがいました」

内山は心外だという表情でそう言って和田の顔を見た。

  • 「他の方は、いたってまともでした。特筆すべきものがあったのは、倉橋さんだけです。それに大変有益な知見も得ることが出来ました」

和田がそう言うと、内山がタブレットをべしっと叩いた。画面にもう一本の線が現れる。

  • 「これは⁠好き⁠とそれに類する言葉の発言を折れ線グラフにしたものです。⁠死にたい⁠⁠好き⁠は逆相関になるだろうと予想していましたが、同じ傾向を示していました。つまり感情が不安定なときに、好きと言ったり死にたいと言ったりしているんでしょう」

内山が淡々と説明した。歪莉は机につっぷした。歪莉が羞恥に震える姿を見て、和田はぞくぞくした。やはり、倉橋歪莉には不幸がよく似合う。ふと視線を感じて横を見ると、堕姫縷と目が合った。堕姫縷は、わかってますよ、という風に微笑む。この女……いや男は、侮れないと和田は思った。

  • 「どうでもいいですが、倉橋さんにはもう少し社会人として精神的に落ち着いて勤務に当たっていただきたいと思います」

和田が冷たく最後のとどめを刺すと歪莉は顔を上げて、わかりましたと細い声で答えた。

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1巻 こちら、網界辞典準備室!
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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