『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第22話 『チェルノブイリ・シンドローム』中間報告を求める宮内は、ネバーエンディング網界辞典を手にし、サイバー軍需企業の魔の手が準備室に迫る

  • 「お前、今が何月かわかってるのか?」

社長室のアーロンチェアにふんぞり返った宮内が和田に訊ねた。宮内は副社長(社長室長から昇進?した)だが、社長がいない時に社長室を勝手に使うことがある。最近その頻度が増えているのは、ストレスが溜まっているのだろうと和田は推察した。本人が気づかない間に、蓄積するストレスは水銀のように体内に残り、肉体を蝕んでゆく。そのうち脱法ドラッグに手を出して、よだれを垂らしながら、自家用車で歩道に突っ込むかもしれない。

再開発によって混迷の度が増し、行き場のない若者がたむろしやすくなったと評判の渋谷の一角に、サイバーシンジツ社はオフィスを構えていた。井の頭線というおしゃれだがマイナーな電車のホームを飲み込むよう建造されたネバーエンディング絶望ランドの白い巨塔。IT企業がひしめくそのビルのワンフロアで、再び物語が始まろうとしている。

  • 「暦通りだとすれば8月です」

網界辞典準備室室長代理の和田は、マホガニー製の机をはさんで宮内と向かい合っている。網界辞典準備室の室長は宮内だが、多忙かつ関心がないため実務は全て和田に一任している。和田は宮内の不機嫌な顔を見ても臆さない。最初のうちこそ緊張したが、不機嫌が常態とわかってからは怖くなくなった。

  • 「来月は9月だよな」

「時空に歪みが生じなければ、そうなります。東京証券取引所にマザーズができた頃は、時空が歪んでいたそうです。ありえない上場企業が亜空間からやってきては消滅していました。リキッドオーディオという会社がありまして……」

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藤原紀香が参加したという上場記念パーティを、和田が見てきたかのように話し出すと、宮内はうるさそうに手を振って遮った。

  • 「9月に、なにがあるかわかるよな」

宮内はため息をついて、窓の外に目をやった。日本のIT産業の行く末を暗示するかのような曇天の下、ワールドカップでしか盛り上がらない渋谷の街が広がっている。

  • 「運動会ですか?」

サイバーシンジツでは、秋に全社員参加の運動会を催している。士気を高め、見せかけの仲間意識を確認するためだ。毎年ユニフォームを新調し、青組、赤組に分れて競う。大縄飛びや綱引きなど、今どき小学生でもそっぽを向くような競技に興じる。ブラック企業だけあって、男性社員のほとんどは目の下にクマを作り、こんなことやるより寝たいという表情を浮かべ、女性社員はセクハラまがいの露出度の多いユニフォームを着せられ泣きそうになりながらも強ばった笑顔を作る。かつて和田は、南米のスラム街のドキュメンタリーで似たような表情を見たことがある。23歳で過労自殺したというヤマダ電機の店長のことが、頭の片隅をよぎる。

  • 「違う! もっと大事なことだ」
  • 「運動会も大事ですよ、社長にとっては」

運動会での社長は、本当に幸福そうだったと和田は思い出す。運動会、文化祭、修学旅行……イベントでしか輝けない人はどこにでもいる。それが社長だと考えものだが。

  • 「うるさい! この会社はオレでもってるんだ。社長のことは忘れろ」

怒鳴ってから、宮内は顔色を変えた。さすがに言い過ぎたと思ったのだろう。

  • 「まあ、とにかく。中間決算の発表があるんだ。そこで網界辞典のベータ版を配布する……と社長が言い出した」

宮内の言葉に和田は、首をかしげた。宮内には、定期的に進捗を報告している。網界辞典準備室は、ネットに関する辞典を作るための部署だが、とてもまとめられるような状況ではない。言うなればカオス。別の部署で辞典を作っていたのだろうか?

  • 「さすが宮内副社長。いざという時のために他の部署でダミーの辞典を作ってらしたんですね」
  • 「そんなことするわけないだろ。お前が、9月8日までに用意するんだ。それからオレを副社長と呼ぶな。宮内さんでいい」
  • 「はあ。副社長ってえらいんじゃないんですか? 昇進ですよね? なぜいやがるんです」
  • 「あのな。上昇志向が強くて、頭の悪いヤツが肩書きにこだわるんだよ。そういうのをうまくおだてて使うために、副社長のポストをたくさん作ったんだ。会社法上の副社長は取締役副社長だが、形だけの副社長は執行役員副社長という会社法上の規定にない権限もない名前だけだ。それでも喜ぶからバカは使いやすい。オレが社長に提案したんだが、オレまで副社長にされるとは思わなかった」
  • 「じゃあ、執行役員副社長という肩書きは……」
  • 「執行役員副社長なんて肩書きを平気で名乗るヤツは、おだてられて利用されてるバカですって言ってるようなもんだ」

和田はメモ帳に、⁠執行役員副社長を見たら、おだてにのりやすいバカと思え」と書いた。

  • 「そんなことは、どうでもいい! とにかく9月8日までになにか冊子を作るんだ」

宮内はいきり立っているが、和田はしらけていた。時間的に無理だし、好きにやっていいと言ったのは宮内のはずだ。

  • 「当初の約束と違いますが……」
  • 「ビジネスに例外と落ちこぼれはつきものだ」

宮内は立ち上がると、パンと手を打った。和田の後ろの扉が開いて、長身の美女が現れた。綴喜堕姫縷(つづき だきる)だ。

  • 「話は、終わった。お前も手伝ってやれ」

堕姫縷は無言でうなずく。

  • 「無理を承知でおっしゃっているんでしょうか? それともこの期間で、まっとうなものができることを期待してらっしゃるのでしょうか?」

和田は成果物のクオリティを確認しようとした。

  • 「ベストエフォート。ベストを尽くせ」

宮内は怒鳴った。IT業界でベストエフォートと言えば空約束の代名詞だ。ツイッターの空リプが無視されるように、ベストエフォートも守られることはない。なんでもいいから、形だけ整えろと宮内は言っている。

今回登場したキーワード 気になったらネットで調べて報告しよう!

  • 『チェルノブイリ・シンドローム』
  • アーロンチェア
  • リキッドオーディオ
  • 運動会
  • イベントでしか輝けない人
  • 執行役員副社長を見たら、おだてにのりやすいバカと思え
  • IT業界でベストエフォートと言えば空約束の代名詞
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1巻 こちら、網界辞典準備室!
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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