エンジニアには戻らない ―Treasure Data CEOとして太田一樹が挑む"目線を上げる経営"

2021年11月、米Treasure Dataは2億3400万ドル、日本円にして約270億円という巨額の資金調達を実施しました。出資を主導したのはソフトバンクで、日本人創業のスタートアップにこれほどの金額が投資されるのはかなりのレアケースといえます。

この大型投資を実現させた立役者が、2021年6月にTreasure DataのCEOに就任した太田一樹氏です。2011年12月にTreasure Data前CEOの芳川裕誠氏、Fluentdクリエーターの古橋貞之氏とともに、ビッグデータ企業のTreasure Dataを創業、太田氏はCTO(最高技術責任者)としてTreasure Dataの技術的方向性をリードしてきました。それから約10年が経過し、自社とIT業界の急激な変化に見舞われながらも、新たにCEOとして現在はCDPのトップベンダとなったTreasure Dataを率いていく決断をした太田氏。本稿では、資金調達実施後の2021年11月に来日した太田氏へのインタビューをもとに、この10年のTreasure Dataの軌跡を振り返りながら、創業者CEOとしての太田氏の経営観に迫ります。

お話を伺ったTreasure Data CEO 太田一樹氏
お話を伺ったTreasure Data CEO 太田一樹氏

新CEO就任に至る道

――コロナ禍での来日となりましたが、CEOに就任されてから日本に来るのは今回が初めてですか?

太田:そうです。この機会に日本(トレジャーデータ)も含め、グローバルの主要なオフィスを回っておこうと思って。パンデミックに入ってからグローバルで200名くらい社員が増えたんですが、一度も対面する機会が得られなかったんです。当社は現在、基本的にリモートワークですが、ときどきのFace-to-Faceも大事なコミュニケーションなので、コロナ禍で難しいのは承知しているんですが、できるときにやっておきたい。

――こんな難しい時代にCEOとしてグローバルで経営の最前線に立つのはすごく大変な仕事だと思うのですが、そうした中にあって11月のソフトバンクからの資金調達はすごく良いニュースでした。今回の資金調達に至った背景について教えてもらえるでしょうか。

太田:その前に、僕がCEOに就任するまでの経緯を説明させてください。すこしさかのぼりますが、英Armとの関係が変化したことでTreasure Dataの経営体制にも大きな影響がありました。

――Treasure Dataが英Armに買収されたのは2018年8月でしたね。このときはまだArmもソフトバンクグループ傘下にあり、Treasure DataはArmのIoTユニットに組み込まれたと記憶しています。買収金額の6億ドル(約660億円)にも驚きました。

太田:その2年後の2020年9月に米NVIDIAによるArmの買収が発表されました[1]⁠。この買収発表にともない、⁠ArmのIoT部門は買収の対象にならない」という事業分離の決定がなされ、Treasure Dataはふたたび独立企業に戻ることになりました。2020年10月には米国本社も日本法人も新体制で経営がスタートしていますが、僕ともうひとりの創業者である芳川(前CEO 芳川裕誠氏)はいち取締役となり、経営の第一線からは退くかたちとなりました。

――当時は太田さんと芳川さんがTreasure Dataから距離を置かれてすこし残念に思っていたのですが、2021年6月には太田さんがCEO、芳川さんが会長としてそれぞれTreasure Dataの経営に戻られました。お二人が復帰するきっかけは何だったのでしょうか。

太田:たしか2021年3月か4月くらいに孫さん(ソフトバンク 創業者取締役 孫正義氏)と宮内さん(ソフトバンク 代表取締役会長 宮内謙氏)に直接呼ばれて説得されたんです、⁠Treasure Dataの経営に)戻ってこないか」と。孫さんが言うには「Treasure Dataはもっと伸びていく会社だ。創業者が経営に関わる会社は必ず強くなる⁠⁠、だから僕と芳川が経営のトップとして戻ることを強く勧められました。

そのころ、芳川は自分で立ち上げたCarbide Venturesというファンドに注力していて、僕もSaaS企業を中心にスタートアップの支援に取り組んでいたんですが、もし次に経営の世界に戻るならCEOがいいな、という思いが漠然とありました。芳川も孫さんも僕がCEOになることに賛成してくれて、芳川が会長に、そして以前にCFO(最高財務責任者)としてTreasure Dataの経営を一緒にやっていたダン・ワイリック(Dan Weirich)がCOO(最高業務執行者)兼CFOとしてボードメンバーに戻ってくることになりました。僕としてはすごくやりやすい経営体制が用意されたので、Treasure Dataに戻ることに決めたんです。

――春ごろに復帰を打診されて、実際にCEOに就任されたのは2021年6月25日付け(ワイリック氏の就任は6月30日付け)でしたが、このタイミングになった理由は?

太田:リーガルのタイミングにあわせたんです。6月1日付けでTreasure Dataは法的にArmから完全に切り離されたので、独立企業となったタイミングで就任しました。

――7月14日にはSFV2(Softbank Vision Fund 2:ソフトバンクグループ傘下のファンド事業会社)からの出資も受け入れ、まさに"新生Treasure Data"がスタートしたわけですね。9月にはCBO(Chief Business Officer)としてMicrosoftやAdobeで活躍された佐分利ユージン氏を迎えるなど、2021年はTreasure Dataの経営体制強化が本格的に進んだ印象があります。11月のソフトバンクによる2億3400万ドルの増資は、創業者CEOが新たに誕生し、経営体制が強化されたTreasure Dataへの評価と期待のあらわれということでしょうか。

太田:企業としてもう一段上を狙う体制が整ったことは確かですね。SVF2からは「Treasure Dataは上場を狙うのにちょうどいい規模感」と評価されているようです。

ユーザが求めるもの ―“その先にある要望”を探る

――事業の話をすこし伺わせてください。現在、Treasure Dataは"CDPの会社"として日本を含めたグローバルで高く評価されています。でも10年前に太田さんたちがシリコンバレーで創業したときは"ビッグデータ+クラウド"を掲げるスタートアップでした。10年前に現在のようなTreasure Dataになることは想像できていましたか?

太田:まったく想像していなかったですね。ただ、10年前から時代の流れというか、大きなトレンドを見誤らないようには気をつけてきました。10年前だとそれがビッグデータ(Hadoop)とクラウド(AWS)だったわけです。

――たしかに当時はHadoopをコアにしたビッグデータスタートアップもたくさん起業していましたよね。ただ、パブリッククラウドと組み合わせた、汎用的なデータプラットフォームを提供しているところはほとんどなくて、いまから振り返るとTreasure Dataは時代を流れるトレンドをきちんと押さえていたことがわかります。ただトレンドは変わっていくものなので、変化のタイミングというか、トレンドの見極めはどうされていたんでしょうか。

太田:我々にとってつねに重要な指標は顧客からのフィードバックです。直接的に要望を聞くことも大切ですが、その先にある要望を捉えることはより重要だと思っていました。データプラットフォームとしてTreasure Dataを利用している顧客は、どのデータをいちばん大切に扱っているのか ―それがカスタマーデータと気づき、プライバシー設定などカスタマーデータプラットフォーム(CDP)として必要な機能の強化に注力しました。いまから振り返ると、この選択は自然なことだったと思っています。

――Treasure Dataが顧客からのフィードバックを大切にしたように、Treasure Dataの顧客にとっても自社のカスタマーデータがもっとも大切だったということですね。

太田:カスタマーデータがビジネスに重要なことはみんなわかっていると思うんです。ただ、日本企業はカスタマーデータを具体的にどう扱うべきなのかをわかっていないことが多い。プライバシー設定はその代表で、たとえばグローバルでビジネスをするならGDPR(General Data Protection Regulation:一般データ保護規則)に対応するのは当然なんですが、そのためにカスタマーデータをどう管理すべきなのか、セキュリティやインシデントにはどう対応するのか、ユーザ(顧客)の権利の行使に対応する準備は整っているか、などを把握している必要があります。でも日本企業がデータプラットフォームに置くのはデータだけで、必要な処理がされていない。10年前はデータが置けるだけのプラットフォームでもよかったけど、いまはプライバシーが非常に重要で、とくにカスタマーデータを扱うならコンシューマ(顧客)から承認を得たデータのみを使うというのがセオリーです。

カスタマーデータを活用する重要性には気づいていても、それらを活用するために必要な機能を総合的に、かつ活用しやすい形態で提供できているベンダは非常に少ない。そこでTreasure Dataはカスタマーデータに関連するサービスを一貫して提供するSaaSビジネスにフォーカスしました。2020年から世界的にパンデミックが始まったことで、あらゆるサービスがオンラインで提供されるようになり、消費者のデジタル接点がそれまでの2倍以上になりました。顧客をいかにデジタル空間で喜ばせることができるのか、企業はこれまで以上に顧客を理解する必要性に迫られています。"顧客ドリブン"というトレンドに乗らなければ今の時代にビジネスで成功することは難しいと多くの企業が気づいたからこそ、CDPの市場が世界的に伸びていると思っています。個人的には体感で年率30%くらいの伸びでCDP市場が拡大すると見ていて、とくにアジア太平洋地域の成長に注目しています。

CDP市場は021年に急速に拡大し、2025年には32億ドル(約3600億円)規模まで成長する見込み。とくにアジア太平洋地域の成長が著しく、Treasure Dataも今後注力していくという
CDP市場は021年に急速に拡大し、2025年には32億ドル(約3600億円)規模まで成長する見込み。とくにアジア太平洋地域の成長が著しく、Treasure Dataも今後注力していくという
――2021年はCDP市場の競争が激しくなった年でもありましたが、Treasure Dataの優位性は何でしょうか。

太田:CDP市場が急速に拡大するのにともなって、大手も含めて参入するベンダが増え、競争が激化しているのも事実です。その中でTreasure Dataの優位性は、というと、やはり顧客をよく知っていることに尽きますね。とくに日本の顧客の理解度に関しては、たとえばSalesforceやAdobeのような大手にも負けない自信があります。日本の顧客の要望をネイティブに理解して、機能として実装できるのは、日本市場でシェア1位を取れているTreasure Dataならではの強みです。もちろん、セキュリティやAIなどに関連した技術的なアップデートも欠かしていません。

――太田さんがCEOに就任されてから「Beyond Marketing - マーケティングを超えていく」というメッセージを出されていますよね。それを象徴するプロダクトとして法人営業をターゲットにした「Treasure Data CDP for Sales」と、コンタクトセンター向けの「Treasure Data CDP for Contact Center」を9月にリリースしています。

太田:これまでのCDPはマーケティングのためのツールと思われていることが多くて、実際にCDPがマーケティングを大きく変えてきたのは事実なんですが、カスタマーデータの理解を深めるべき分野はマーケティングに限らないはずなんです。9月にリリースした2つのプロダクトはCDPの可能性を"Beyond Marketing"に拡げていく最初のステップと思ってもらえれば。

――どちらも良いターゲティングですが、とくにコンタクトセンターにカスタマーデータを反映して顧客満足度を上げていくというアプローチはすごく理にかなっているように思えます。

太田:コンタクトセンターってこれまではコストセンターとして捉えられることがほとんど、既存のプラットフォームもそういう視点で作られたものが多かったんですね。でも顧客の声を直接収集できるという利点を活かせば、あらゆる顧客接点を管理する司令塔にもできるはずです。最高のカスタマーエクスペリエンスを提供する、カスタマーサクセス実現のためのプラットフォームとしてCDP for Contact Centerを活用する企業が増えればうれしいですね。顧客に対する理解やセキュリティやプライバシーの扱いに加えて、顧客接点の多様さもTreasure Dataの強みにしていきたい。

競争が激化するCDP市場にあってTreasure Dataは国内で強いシェアを誇る。スバル、ヤマハ、ニトリなど大企業の導入が多い。なお太田CEOのお気に入りの事例はスバルだそう
競争が激化するCDP市場にあってTreasure Dataは国内で強いシェアを誇る。スバル、ヤマハ、ニトリなど大企業の導入が多い。なお太田CEOのお気に入りの事例はスバルだそう

優れたものより“より多くの人の手に渡るもの”

――ビッグデータカンパニーからCDPベンダへと変わって、太田さんもCTOから創業者CEOへと変わったわけですが、エンジニアとして技術で勝負したいという気持ちはないんでしょうか。

太田:僕はもうエンジニアではなくて経営者としてビジネスに関わっていくと決めています。エンジニアには戻りません。もちろん、技術のトレンドはこれからもキャッチアップするし、RustやPythonの勉強も続けますが、経営者としてブラッシュアップしていくことがこれからの僕の仕事です。

Treasure DataはいまはCDP/SaaSカンパニーとしてビジネスを展開していますが、データベースのエキスパートとしての矜持はいまも変わっていません。ビジネスの中心がカスタマーデータに移っただけで、データの会社、技術の会社であることに変わりはない。ただ、僕自身に関していえば、エンジニアとして技術で勝負していくよりも、より良いプロダクトを作り、それをたくさんの顧客に売る、という道を選びました。いちばん良い(技術的にすぐれている)プロダクトが必ずしも勝つわけではない ―エジソンやテスラの例をひもとくまでもなく、技術的にすぐれているものよりも、より世の中に広がったもののほうが最終的に勝つのなら、僕は経営者として顧客が抱えている問題を解決することに注力し、より多くの人の手に渡るよう営業/販売のチャネルを拡げていきたい、そう思っています。

――CEOになられてから変わった習慣などはありますか。

太田:そうですね、以前から本はよく読むほうですが、最近ではIT業界のリーダーが書いた経営書を読むことが増えました。マイケル・デル(Michael Deli / Dell Technologies CEO)とかビル・マクダーモット(Bill McDermott / Service Now CEO)とか、あとIT業界ではないですが、ニトリ創業者の似鳥昭雄さんの本もおもしろかったです。あとは「Master of Scale」⁠LinkedIn創業者のリード・ホフマン(Reid Hoffman)氏がホストするインタビュー形式のポッドキャスト、シリコンバレーの大物経営者がゲストとして出演することが多い)もよく聞いています。

――経営者としての研鑽を積まれている真っ最中のようですが、5年後、10年後のTreasure Dataをどんな会社にしたいと思われていますか?

太田:今回、大規模な資金調達を実施できたのでまずはプロダクト開発に専念しつつ、会社をスケールさせていきたい。具体的には現在、グローバルで500名超の従業員を1000名くらいにしたいと考えています。5年後、10年後は…そうですね、"in general"にいうならWorkdayやServiceNowのようなSaaSとマーケティングで大きく成功した企業をめざしていきたい。

――WorkdayやServiceNowもデジタルのパワーで急激にSaaSビジネスを成長させ、株式上場まで実現した企業なので、Treasure Dataと似ている部分は多いように思います。そういえばArmによる買収の前、太田さんはよく「NASDAQ上場を果たしたい」とおっしゃっていましたが、独立企業となった現在、ふたたび上場をめざしていくのでしょうか。

太田:うーん、たしかに10年前は上場をひとつのゴールとして描いていましたが、現在は正直、上場にそれほどこだわる必要もないと思っていて。IPOを最初のマイルストーンとしてめざしていく成長のアプローチが現在のTreasure Dataに適しているかは、会社をスケールする過程で考えていこうかと。

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――お話を伺っていると、やはりCTOからCEOに変わられたんだなと強く感じます。ご自身でも大きく変わったと思うところはありますか。

太田:CEOに就任してから「目線を上げる経営」ということを意識しています。孫さんからは「1兆円の会社を作れ。そのためには3を狙って1の結果を得るのではなく、10を狙って3の結果を取りに行け」と言われました。そのためには目線をつねに上げて前に進まないといけない。僕たちはたしかにユニコーンを作ることはできたけど、そのレベルで終わってはだめだと、強く思わされました。目線を上げて、経営を変えていく ―CEOとしてこの言葉を実践していきたい。

――エンジニアには戻らないという太田さんですが、エンジニア出身者の経営者として日本のエンジニアにメッセージをお願いできますか。

太田:パンデミックでゲームのルールが変わった現在は、ある意味、エンジニアにとってチャンスが拡がったと思います。エンジニアは自分のスキルを磨くことはもちろんですが、自分のもつスキルが社会にどんな影響を与えるのか、社会をどう良くすることができるのか ―技術力だけではなく、それが社会実装された世界をイメージしながら前に進んでいってほしいですね。

ソフトバンクが主導した2億3400万ドルの資金調達を記念して、11月4日に創業者3名(太田氏、古橋氏、芳川氏)が米ニューヨークのNASDAQ前に集結! かつては「NASDAQ上場を必ず!」と話していた太田CEOだが、現在はとくに明確なマイルストーンには位置づけていないという。とはいえ、上場してもおかしくないレベルまでスケールさせることは太田CEOの重要なミッション。この日のNASDAQのサイネージには「Treasure Data is a best-of-breed enterprise Customer Data Platform shaping the future of customer centricity(Treasure DataはエンタープライズCDPのベストオブブリードであり、顧客中心な未来を形づくっていく⁠⁠」と映し出された
ソフトバンクが主導した2億3400万ドルの資金調達を記念して、11月4日に創業者3名(太田氏、古橋氏、芳川氏)が米ニューヨークのNASDAQ前に集結! かつては「NASDAQ上場を必ず!」と話していた太田CEOだが、現在はとくに明確なマイルストーンには位置づけていないという。とはいえ、上場してもおかしくないレベルまでスケールさせることは太田CEOの重要なミッション。この日のNASDAQのサイネージには「Treasure Data is a best-of-breed enterprise Customer Data Platform shaping the future of customer centricity(Treasure DataはエンタープライズCDPのベストオブブリードであり、顧客中心な未来を形づくっていく)」と映し出された
(写真提供: 太田氏/Treasure Data)

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