【対談】『圏論の道案内 〜矢印でえがく数学の世界』に先立って

第1回圏論との出会い

  • 日時:令和元年7月22日13時〜
  • 場所:東京大学工学部14号館にて
  • 『圏論の道案内 〜矢印でえがく数学の世界』⁠2019年8月9日発売)に先立って

西郷甲矢人(さいごうはやと)
『圏論の道案内』著者の1人。1983年生まれ。長浜バイオ大学准教授。専門は数理物理学(非可換確率論⁠⁠。
成瀬誠(なるせまこと)
西郷先生と近年一緒に研究をされていて、情報物理の観点から、圏論の応用に取り組んでおられます。東京大学大学院情報理工学系研究科システム情報学専攻 教授。

この対談では、圏論の道案内として、圏論との出会いや関連の研究分野とのつながりなどを連載 全6回にわたって語っていただきます。

対談風景
左:成瀬誠先生  右:西郷甲矢人先生

第1回 圏論との出会い

西郷 今日はどうもお忙しい中ありがとうございます。⁠圏論の道案内』は私と能美十三氏のある種の対談本みたいな形だったので、きょうも対談がよいかなと思いました。ところが能美氏は今日は会社に行かなきゃいけないので、折角なら対談相手として近年一緒に研究されている成瀬先生に来ていただいて色々お話聞できたらということでお忙しい中無理を申しました。ありがとうございます。まず話のとっかかりとして、成瀬先生がどんな風に圏論というものと出会ったり、興味を持ったりされたかを教えていただけますか。

成瀬 本日はどうもありがとうございます。私が圏論に出会いましたのは、光の研究、近接場光学、ナノフォトニクス*1というんですけれども、その分野がきっかけでした。近接場光学というのは、光の波長*2より小さな世界で光と物質が結合して一体化した状況を扱うのですが、光と物質がどのように結合し、どのように相互作用が展開していくか、さらに応用をどのように作っていくかという学問分野です。光と物質がどのように相互作用するのかということに関する理論が非常に難しくて。今日現在でも確立したものはないと私は理解しているんですね。

*1 近接場光学、ナノフォトニクス
波長よりも小さな寸法での光をあつかう学術分野名。
*2 光の波長
光が振動の1周期で進む長さ。人間の眼に見える光の波長は約400ナノメートルから800ナノメートル。1ナノメートルは10億分の1メートル。

それはなぜかって言いますと、近接場を考えるときにその大きさをどの位に設定するかとか、エネルギーがどのように入っていくか、出て行くかとか、その状況の設定によって、いかようにも出来てしまうところがあって。つまり環境の取り扱いに対して非常に難しさがあって。これをどうしようかということでずっと悩んでいたんですね。

この問題はわたしの師匠のひとりである山梨大学の堀裕和先生がパイオニアとして長年に渡り考えてきた問題です。そこのところで出合ったのが圏論、正確にはホモロジー代数*3でした。物事と物事の関係を射という矢印で表して、一見よくわからない環境みたいなものも一つのオブジェクトとして表現し、その関係をスパッと表現できてしまうと。非常に鮮やかだなあということで、この圏論というのは近接場光学に使えるのではないかというのが最初の入り口でした。

*3 ホモロジー代数
図形のかたち(トポロジー)を代数的に扱う数学を起源としているが、現在では数学の広い範囲で用いられている。圏論とのつながりも強い。

西郷 今おっしゃられたことのうちで圏論の本質的な部分がすでにあぶり出されていると思うんですけれども、直接に触れることが出来ない、見ることが出来なかったりすぐわかるものではないもの、例えば近接場光学であれば、その相互作用の渦中に直接手を入れてみることが出来ない現象を他のものとの関係の中で理解していくというのが非常に圏論的ですよね。もっとも圏論に限らず、数学全般にそういうアプローチを発展させてきたのであり、その典型が代数だったりあるわけですけれど。謎のものを関係性のうちにおいて、つまり「方程式」を作って関係性を変形していくことで未知のものがわかるというのが代数の起源ですからね。

こういう考えはある意味で非常に古い時代からあるわけですけれども、その現代的な、非常に広汎な一般化っていうのが圏論であって、わからないものがある時に、それをわからないと諦めるわけでなく、関係性によって見えない構造、もっといえば見えない関係性をあぶりだす。つまり見える関係性を通じて見えない関係性を炙り出していき、それによって物がわかるようにする。そういうのがすごく圏論の大事なポイントで、おそらくそこを非常に強烈に感じられたのかなと思うんです。

成瀬 もう一つのきっかけは、当時そのナノフォト二クスで応用が求められていました。それで、それまで検討されていたのは例えばA×B、A+Bが何かっていうような普通の論理演算*4の回路を小さくする、という筋の研究だったんですが、どうもそれは面白くないと感じました。他の技術でもできるようなことですし、何かもっと近接場光学とかナノフォト二クスらしさが生きるようなそういうものはないかなと思っていたんですね。その時に出会ったのが粘菌コンピューティング*5という考え方です。粘菌というのは単細胞生物なんですけれども、時としてとても知的なふるまいを示すもので、それに学んだ粘菌コンピューティングというものがあります。その粘菌の動き方が近接場光に似ていると思いました。そこから近接場光を使った解探索*6の研究が展開していったんですね。

*4 論理演算
ここではブール代数(0と1)によるデジタル演算を指している。反転演算(0を1にする、1を0にする⁠⁠、AND演算(1と1のANDは1、それ以外は0)などからなる。
*5 粘菌コンピューティング
単細胞生物である粘菌(アメーバ)やその振る舞いを規範として用いる計算概念。巡回セールスマン問題や充足性可能性問題などの求解が示されている。
*6 解探索
ある条件を満たす解を探索すること。問題によっては、解の候補としてあり得る可能性が爆発的に大きくなり(組合せ爆発⁠⁠、求解が著しく困難になる。

西郷 われわれの協働が始まったのもその頃ですね。

成瀬 はい。こういったタイプの研究、すなわち通常の集積回路で使われている電子技術にこだわらず、自然界の多様な物理をうまく使ってシステムやデバイスの革新を目指そうという研究は、量子*7でもスピン*8でも生体でもいろいろあるのですが、例えば現在取り組んでいる光を用いた意思決定の研究でも、系全体の振る舞いを記述するにはさっきの繰り返しなんですけれど、環境がとても重要で、そこをどうしても取り入れる必要があるんですね。そうするとやはり圏論的な考え方を入れるととてもすっきりする感じなのです。

*7 量子
ここでは状態の重ね合わせを用いる量子コンピューティングを指している。
*8 スピン
ここでは電子の回転に関する自由度を活用した計算の可能性を指している。従来の電子デバイスは電荷を活用しており、回転の自由度は使われていない。

西郷 なるほど。今のポイントっていうのは例えば、これまでにない計算っていうのをやろうとするとある意味「計算とは何か」ということに踏み込んで考えなきゃいけないということですよね。あるいは「論理とは何か⁠⁠。計算や論理っていうのは一種のプロセスの総体ですよね。止まったものではなくて、ある状態が別の状態になっていく。論理にしてもある命題から別の命題に導いていく。あるいは意思決定*9っていうものについても、ある状況が与えられている時にどういう状態を選んで、どういうふうに行くのか、要するにスタティック(静的)に止まったものではなくて、あるところから別のところへどういうふうに遷移することが出来るのか、そういうものの見通しを考えるとするとここでもう自然に「圏」の構造が見えてくる。

*9 意思決定
ここでは不確実な環境下で適切な選択や行動を取ることを差している。意思決定の基盤のひとつに、複数の報酬不明な選択肢から適切な選択をする多本腕バンディット問題が知られている。対談の成瀬と西郷らは光を用いたバンディット問題の解決やその圏論的理論構築に関する研究を行っている。

成瀬 そうですね。

西郷 成瀬先生と私は本来門外漢ではあるんですが、最近非常に重要な技術というかブレイクスルーと言われる「ソフトロボット」*10について小さな論文を書きました。そこで定義されたのは「モビリティの圏」*11とわれわれが呼んでいるもので、これは『圏論の道案内』の中で名前は出していないのですが、圏というものを考える一番の典型例として2章から事実上導入しているものなんですね。

*10 ソフトロボット
柔らかい媒体からなるロボットの総称。様々な実現形態が示されているが、ユニバーサルグリッパーと呼ばれるソフトロボットは、腕の先端がコーヒー豆を詰め込んだゴムの袋からなり、いかなる形状の対象もおよそ掴み取ることができる。
*11 モビリティの圏
可能な状態を対象とし、可能な状態遷移を射とする圏。

本書でも述べているように、圏というのは「対象」をつなぐ「射」のネットワークとでもいうべきもので、比喩的にいえば対象は「点」であり、射はその間をつなぐ「矢印⁠⁠。では「モビリティの圏」の対象は何かというと「状態」であり、射は「状態遷移」*12です。これらの総体を考えることによってシステムのダイナミクスと言いますか、動力学を捉えていこうという、そういう考え方です。

*12 状態遷移
状態が他の状態に変化するプロセス。

大変素朴な概念で、むしろ素朴すぎてあまりみんな使わなかったんじゃないかなって思うんですけど、そういう概念を持ってきたんですよね。この「モビリティの圏」を土台にすると、実は計算にしろ、論理にしろ、意思決定にしろ、およそ「可能な遷移の総体」としてのダイナミクスを考えることによって今までより一歩深く広く捉えられると思うんです。

圏の概念と射
『圏論の道案内』21ページより抜粋

成瀬 そうですね。

西郷 一言付け加えるなら、さっき環境との関係ってことをおっしゃったんですけれども、これが重要なんですね。さきほどモビリティの圏の対象を「状態」*13としたわけですが、状態とはそもそも何か。これは普通物理の人を含めて、状態っていうとシステムそのものに属している何かだ考えがちなんですけれども、私の指導教官であった小嶋泉氏がずっと強調しているように、状態というのはシステムだけではなくて、システムと環境との相互関係、これによって定まるものである。そういうものを「対象」として考えている。つまりこの「対象」自体がより深めてみると矢印的なものである。すると状態遷移というのはもうその時点で「射の間の射」とも思える。こんな風にいろんなレベルの関係性をシステマティックに繋いでいこうとすると、圏論がどうしても必要になるだろうと思います。こういうところが、圏論というものの素朴ではあるけれどもすごく大事な特性かなと思ったりするんですね。

*13 状態
ある系(システム)の状態とは、その系と環境(系と密接な関係をもつ系)との相互関係のあり方(インターフェース)を言う。数学的には、系の物理量からなる代数上の期待値汎関数(各物理量に対し、その期待値を対応させる関数)をいう。しばしば状態は系に内在するものとして考えられているが、実際には系と環境との相互関係のあり方と見るべきであるとの観点は小嶋泉らによって(代数的量子場理論の知見に基づいて)強調されてきた。

成瀬 その通りですね。

西郷 ちょっとお話を転じますけれど、この間どこかに成瀬先生が『同じということの数学と光コンピューティング*14の基盤』というエッセイをお書きになりましたね。

*14 光コンピューティング
光を用いたコンピューティングの総称。

成瀬 日本光学会の会誌のですね。

西郷 そこ中で超準解析と並んで圏論のお話を書かれていたんですが、私自身も認知科学会など数学以外の色々なところで「異なるものの同じさ」とか「同じさの定義⁠⁠、そういう根源的な問題を圏論的な観点から捉えるべきだと言っているんです。数学者にとっては例えば、いろんな作り方で作った実数体(実数全体の集合)たちは、集合としては全然違うんだけれども、互いに移しあえる、やり取りしあえるので「同じ」とも言える。

こういう同じさは本書でも出てくる「同型」と言いまして、⁠行ったり来たり出来る矢印」でつながっているものを同じとみるわけですね。こうした素朴ともいえる「同じさ」をベースにして、圏論では様々なレベルでの同じさを系統的に扱えるわけです。こういうのはある意味数学の中では常識と言っていいわけなんですけれども、数学以外の専門家の方々とお話をしていると、こういうものの考え方が結構衝撃的に受け止められる場合が多いんです。成瀬先生にとってこういう「異なるものの同じさ」の捉え方っていうのがどういうふうに衝撃的というか、これは重要だ!と思われたのか、その辺をちょっと聞かせていただけますか。

次回、『計測と圏論/合成系を作る』に続く……

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