2024年4月24日,アメリカ議会において下院に続き上院でも「TikTok禁止法案」が通過しました。事態の今後や影響はさまざまに考えられますが,日本でもすっかりおなじみとなった大人気アプリは同時に米中対立の象徴にもなったことは間違いないでしょう。
前編ではTikTokを生み出した企業・バイトダンスの来歴と今後に注目しましたが,後編では「都市」に注目します。バイトダンスが本社を構える北京はAI研究において世界をリードする「AIの首都」でもあります。米中のみならず世界がしのぎを削るAI研究において,なぜ北京は一歩先んじたのでしょうか。発展の背後にいる存在に迫ります。
北京のユニコーン群の評価は世界トップクラス
中国の首都・北京は政治,文化,そして科学技術の中心地であり,スタートアップの一大集積拠点でもあります。その背後にいるのはIDGキャピタルやホンシャン(紅杉中国,旧セコイア・キャピタル・チャイナ)といったベンチャーキャピタルだけではありません。起業家にシード資金を提供するエンジェル的なベンチャーキャピタルも北京には多くおり,その代表がシノベーション・ベンチャーズ(創新工場,旧シノベーション・ワークス)です。同社の創業者,李開復(カイフー・リー)CEO兼会長は投資家のほか啓蒙者としての顔も持ち,北京を「AIの首都」に変貌させた立役者の一人です。
中国の中では北京のスタートアップの集積は群を抜いています。ユニコーンの数は64社で全国170社の約3分の1が集まり,2位の上海38社に大差をつけています(2024年2月1日時点)。評価額の合計ではニューヨーク,シリコンバレーを抜いて,サンフランシスコに次ぐ世界2位です。スタートアップ・ゲノムの「グローバル・スタートアップ・エコシステム・リポート(GSER)」では2023年はボストンに次ぐ7位で,2019年はロンドンと同率3位でした。ユニコーンの評価額合計でも,現在はバイトダンスの存在が大きいですが,これまでもバイドゥ,美団,滴滴出行,シャオミ(小米)など多くの元ユニコーン企業を輩出してきました。
こうしたテック企業のほとんどが北京の中でも「中関村」を中心とする海淀区に集まっています。海淀区には北京大学,清華大学という中国のトップ2校や,中国科学院の計算技術研究所,半導体研究所など有力研究機関が多数立地しています。狭義の中関村は北京の中心・天安門から北西に10キロメートルほどの所に位置する1平方キロメートル強のエリアで,1980年代は電子部品やパソコンを販売する小さな店舗が集まった「中国の秋葉原」でした。改革開放の波を受けて1984年以降,パソコンメーカーで計算技術研究所発のレノボ(聯想集団),北京大学発のファウンダー(北京方正集団),半導体メーカーで清華大学発の紫光集団(ユニグループ)などが中関村周辺に生まれました。1988年には中関村ハイテクパーク(中関村技術園区)の前身が設立され,同パークは政府認定のハイテク産業特区として北京市内16区画に拡大しました。今や中関村と言えば「中国のシリコンバレー」を意味する言葉となっています。
現在,北京にはAI系スタートアップが数多く集まっています。バイドゥ,バイトダンスもAI系ですが,画像認識AIをビジネスに応用するスタートアップが多く生まれ,10社ほどのAI系ユニコーンが存在しています(2024年2月1日時点)。
例えばAIチップ開発のホライゾン・ロボティクス(地平線機器人),画像認識AIのメグビー・テクノロジー(曠視科技),AIソフトをSaaSで提供するフォーパラダイム(第四範式),自動運転AIのモメンタ・テクノロジー(初速度科技)などで,この4社に共通して出資するのがシノベーション・ベンチャーズです。まさにAIユニコーンの「創業工場」です。IDGキャピタルやセコイア・チャイナは北京の西のビジネス街,朝陽区にありますが,シノベーションはユニコーン4社とともに海淀区にあります。
「中国版Yコンビネーター」
シノベーションはシード段階やシリーズAなど初期段階に投資するベンチャーキャピタルで,李CEO兼会長が2009年に北京で創業しました。経営指導したスタートアップがベンチャーキャピタルの前でプレゼンをする「ピッチ」は開催していませんが,「中国版Yコンビネーター」といった存在です。ゼロ2IPOリサーチセンター(清科研究中心)が毎年公表している中国早期投資ベンチャーキャピタル・トップ30では2015年以降トップ5に必ず入り,2021年には首位になっています。IDGキャピタルやホンシャンはどちらかというと成長資金を提供するベンチャーキャピタルですが,シノベーションはエンジェル投資家に近く,投資したスタートアップを大手ベンチャーキャピタルや大企業につなぐ役割をします。
李氏は元国民党幹部を父に台湾の台北で生れ,米国に渡りコロンビア大学でコンピューター科学を学びました。カーネギー・メロン大学で博士号を取得した音声認識分野の専門家です。同大学では深層学習の権威,ジェフリー・ヒントン氏がすぐ近くで研究していたそうです。アップル,シリコン・グラフィックスの研究者を経てマイクロソフトに入社し,1998年に北京に派遣されてアジアの研究拠点マイクロソフト・リサーチ・アジア(MSRA,微軟亜洲研究院)をゼロから立ち上げました。
「北京にはより多くの一流大学があった。なかんずく清華大学と北京大学の2校は,おそらく国で最高の工科大学だ。これは研究所の将来にとって,人材確保のうえでも,すぐれた共同研究をおこなううえでも重要だった。中国科学院の主要な機関もやはり北京にあったから,そこを通して重要なコネクションを作ることもできる」。李氏がMSRAの場所として外資に人気だった上海ではなく北京を選んだのは,優秀な理系人材のいる大学や研究機関があったからでした。
李氏は2005年にライバルのグーグルに引き抜かれ,中国法人社長としてバイドゥとの検索サービス市場争いに挑みました。中国政府の検閲や介入もあり,グーグルは中国市場に浸透できず,2010年に中国本土から撤退しています。李氏は本社の撤退の動きを察知して,2009年に自ら起業する道を選びました。
李氏は中国テック業界の有名人で,「AIスーパーパワーズ」(邦題「AI世界秩序 米中が支配する『雇用なき未来』」)などのベストセラーもある「AI啓蒙家」でもあります。同書の中で李氏は,シリコンバレーの真似ばかりしてきた中国のネット業界は,スマホの普及,「ウィーチャット」などのスーパーアプリの登場で「独自の原料と惑星系と物理法則を備えた宇宙」「インターネットの並行宇宙」を作り上げた,としています。そしてAIの時代となり米国を凌駕する可能性があるとも語ります。「21世紀のAI超大国にはおもに四つのものが必要だ。豊富なデータ,不屈の起業家,有能なAIエンジニア,そして政府の支援である」「アメリカで連綿と続いてきた個人の自由と技術的功績は,近代という時代において比類のないものだ。だがAI実用化時代には,中国の(テクノ功利主義的)アプローチの方が,展開を加速し,より多くのデータを生み出し,さらなる成長のための種を播く作用がある」と述べています。
中国,北京がAI研究分野で米国の実力をすでに上回っていることを示すデータもあります。スタンフォード大学人間中心AI研究所が毎年まとめている報告書「AIインデックス」の2021年版によれば,AI関連の学術論文数の世界シェアは中国が2004年から米国を凌駕し,2020年は18%を占めました(米国は12%)。
さらに論文の質を表す論文引用数も2020年に21%に達し,米国(20%)を追い抜きました。中国の中では北京の実力が抜きん出ています。北京市政府によれば,2022年10月の時点で,北京には1048の人工知能企業があり,全国の29%を占めているそうです。AIの中核技術人材は北京に4万人以上おり,これは全国の60%を占めるとのことです。まさに中国の「AIの首都」と言えるでしょう。
シノベーションは「中国の起業家が世界クラスの企業を構築するのを支援する」ことを社是として掲げています。「AI,ディープテック」を筆頭に,「ロボット,自動化」「企業向けソフト」「半導体」「ヘルスケア」「持続可能技術」の六つを投資テーマにしています。人民元及び米ドルで計30億ドル以上の資金を管理し,中国を中心に400社以上に投資しています(2024年2月時点)。投資した企業では質問・回答サイト「クオーラ」の中国版である「知乎」,美顔自撮りアプリの「美図」,共済保険サイトの「ウォータードロップ」(水滴)などがすでに上場しています。
「AIの黄埔軍官学校」,マイクロソフトとバイドゥ
北京市政府系の北京智源人工智能研究院がまとめた「北京AI発展報告書2020」によれば,中国の主要AI企業の創業者チームの出身大学及び職歴を調べたところ,大学では清華大学が176人と断トツの1位で,北京大学の96人が続きました。ほかに中国科学院,北京航空航天大学もトップ10に入り,北京の大学・研究機関がトップ10のうち四つを占めました。職歴ではバイドゥが99人,MSRAが90人と3位のアリババ56人に大きく差を付け,この2社を「AIの黄埔軍官学校」と評しています。李氏を追ってMSRAからグーグルに転じた林斌氏も,李氏がグーグルを去った翌年にシャオミを創業しています。バイトダンス創業者の張一鳴氏も一時MSRAで働いていました。
実際,シノベーションが投資したAI系ユニコーンの創業者のバックグラウンドを見ると清華大学,MSRA,バイドゥが北京のAI系スタートアップ生態系形成に大きな役割を果たしていることがうかがえます。北京の投資家もシノベーション以外も層が厚いことが分かります。
メグビーはAIを使って顔などを認識する技術を「フェイス・プラス・プラス(Face++)」として商品化し,スマホの顔認証システム,監視カメラで人物を特定する顔検出システム,歩道上の人間を認識する自動運転システムなどに応用しています。印奇CEO,唐文斌CTO,楊沐副社長の3人が2011年に創業しました。印氏は清華大学を卒業後,MSRAで研究者となりました。唐氏も一時MSRAにいました。3人とも清華大学学際情報研究所のアンドリュー・チーチー・ヤオ(姚期智)教授の下でコンピューター科学を学んでいます。ヤオ教授は2000年に「チューリング賞」を受賞した高名な計算理論学者です。メグビーにはレノボ系の初期段階ベンチャーキャピタル,レジェンド・スター(聯想之星)も投資し,後にアリババ,アントが支援しました。
評価額10億ドルのモメンタ・テクノロジーは曹旭東CEOが孫剛副社長,夏炎副社長,任少卿氏(現NIO副社長)と2016年に創業しました。曹氏は清華大学で機械工学を学んだ後,MSRAの研究者となり,画像認識AI大手のセンスタイム研究部長を経て起業しました。孫氏はMSRA,バイドゥ,センスタイム,夏氏はMSRA,センスタイム,任氏はMSRAで働いていました。同社は自動運転車の頭脳部分を開発し,それを自動車メーカーに提供するビジネスモデルです。同社には北京にある初期段階ベンチャーキャピタルのジェン・ファンド(真格基金)が当初支援し,後にトヨタ自動車,上海汽車集団,メルセデス・ベンツグループなど自動車関連企業も投資しています。
ホライゾン・ロボティクスとフォーパラダイムはバイドゥと関係しています。ホライゾンは余凱CEO,陶斐雯副社長,黄暢副社長,楊銘副社長の4人が2015年に創業しました。余氏は南京大学で電気工学の修士号,ドイツのルートヴィヒ・マクシミリアン大学(ミュンヘン大学)でコンピューター科学の博士号を取得し,独シーメンスの研究者,NEC北米研究所のメディア分析部長,バイドゥのイメージ研究部長を経て独立しました。MSRAでインターンシップをしていたこともあります。陶氏とはバイドゥ,黄氏とはNECとバイドゥ,楊氏とはNECでいっしょに働いていました。ホライズンにはジェン・ファンド,レジェンド系ベンチャーキャピタルのレジェンド・キャピタル(君聯資本)も投資し,インテル・キャピタル,韓国SKハイニックスなど半導体,上海汽車集団,東風汽車集団,CATL,BYDなど自動車関連の企業も出資しています。
フォーパラダイムはAIを使って怪し気な取引を検知してマネーロングリングを防止したり,融資リスクを評価したりするサービスを金融機関向けに提供しています。戴文淵CEO兼会長が香港科技大学の楊強教授やバイドゥの元研究者らと2014年に創業しました。戴氏は上海交通大学で修士号を取得後,バイドゥの研究者となり広告プラットフォームの収益を大幅に改善した実績があります。その後,楊教授が2012年に香港で立ち上げたファーウェイのAI研究所「ノアの方舟研究所」の主席科学者に就任しています。フォーパラダイムはセコイア・チャイナが初期段階で支援し,中国工商銀行,中国建設銀行,中国農業銀行,中国銀行の四大国有銀行が出資しています。
シノベーションも「AIの軍官学校」入り?
シノベーションは既存のスタートアップに投資するだけでなく,AI系スタートアップの内部育成にも取り組んでいます。単なる初期段階のベンチャーキャピタルではなく,ベンチャーラボ,インキュベーター的な機能も持っています。その役目を果たすのが2016年に設置したAIインスティチュート(人工智能工程院)です。AI研究の社会実装を推進するとともに人材育成も手掛けています。2017年から毎年,選抜した大学生を対象に同組織のメンバーがAIの基礎・応用を教える1カ月ほどの「ディーキャンプAI訓練キャンプ」を実施しています。これまでに1500人以上の学生を「訓練」しました。
AIインスティチュートからスピンアウトしたスタートアップの一つで,2018年に設立されたのがAIノベーション(創心奇智)です。製造業向けに画像認識AIを提供し,製造工程の自動化を進めています。AIノベーションはホッキング・シュー(徐輝)CEOと張発恩CTOが創業しました。シュー氏は上海交通大学で電気工学を学んだ後,IBM,SAP,マイクロソフトの上海拠点などを経て起業しました。張氏は起業前はMSRA,グーグル,バイドゥのソフト技術者を務め,現在,AIインスティチュートのチーフ・アーキテクトも兼務しています。AIノベーションは政府系投資会社,中国国際金融(CICC)子会社やソフトバンクグループなどから投資を受け,2022年1月に香港取引所に上場しました。
李開復氏は2021年9月,北京で開催されたスタートアップイベント「HICOOL2021 グローバル起業家サミット」で,これからはAI,高次コンピューティング,新エネルギー,生命科学の分野のハードウェア技術がトレンドとなり,シノベーションのチームがこうした分野の技術の社会実装やマーケティングを支援していきたいと起業家に語りかけました。「今はテック起業家の時代であり,中国と北京は科学者が自分のビジネスを始めるのに最適な場所であると深く信じています」。2023年3月には自ら会長兼CEOとなって,生成AIモデルの開発に取り組むゼロワン・ドット・エーアイ(01.AI,零一万物)を創業しています。同社は1年もたたずにユニコーン入りしたとされます。シノベーションも「AIの黄埔軍官学校」と呼ばれる日が来るかもしれません。